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ノーベル賞受賞の軌跡語る(中) 京都産業大学・益川敏英教授(69)
■転機は小学校の作戦会議
「私は、1940年に名古屋に生まれました。2歳年上の姉がいましたが、幼児結核で学校に上がる前に亡くなりました。戦後、7つ年下の妹が生まれるまでは一人っ子でした。体が大変弱くて、やせこけてピーピーいっていた子供だった。同年代の子供と遊ぶというような経験はほとんどなくて、(実家は家具工場で)職人さんの間をちょろちょろしているような子供。言葉遣いなんかも非常にこまっしゃくれていて大人の言葉を使う。言語感覚はそういう中で覚えたような感じがします。
僕の年齢が多分戦争体験としては最後だと思う。戦後のあの時代は物資はないし、貧困だけど、みんな明るい。一般の日本人が自分で戦争をしていたわけじゃない。軍隊がいなくなった状況は、ある意味それまであった重々しい雰囲気がない。青空天井になった。ヤミ市で物を売ってもうけたとか、さばさばしている。最終的に大学院に入って研究のまね事みたいなのを始めた時代は、日本人等しくみんな平等なんです。
日本は資源がないのだから科学で生きるより仕方がないというテーゼがあった。自分は科学が好きだというのは農家の子供であろうが、酒屋さんの子供であろうが、勉強の好きなやつは入れた。いまは違います。同じ能力なら、勉強部屋を子供に与えて家庭教師をつけた方が何もしていないより大学へ入る確率は必ず高くなる。
小学校のとき、友達の家に行ってグループ研究で調べなきゃいけないから作戦会議をやった。そのとき、紅茶とケーキが出てきた。僕はショートケーキなんて見るの初めて。あの時代でもケーキを子供のおやつに出せるような所があった。
グループ研究が非常に重要な契機だった。そこで作戦会議をして、大きなテーマを与えあって、『お前は何々を調べてこい』みたいな、そんなものだった。
小学校のすぐ横に図書館ができた。そこで初めて自分で本棚から本を抜き出して、パラパラッと見る行為をした。どういう本だったか覚えていないのですが、震えるような感じを受けたのを覚えています」(9日、東京都千代田区の日本記者クラブで講演)

