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【街物語】(43)太宰治がほおづきをつき、考えていた「津軽」の未来 (1/3ページ)
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津軽平野の中央、青森県金木町(現・五所川原市)の生家に、はかま姿の叔父がひょっこり現れたのは、昭和16年8月のことだった。「問題ばかり起こすしようがない人」。両親が声を潜めて話すときはいつも叔父の話題だったから、めいの田澤陽(83)は幼心にそう思っていた。
「今は三鷹でつましく生活しています。妻が空き地を畑にして耕していまして」。食事をしながら、叔父はとつとつと近況を報告した。滞在は3時間ほど。「今度は兄の許しをもらってまた来ます」と言い残し、出ていった。
それまでおぼろげな記憶しかなかった叔父、太宰治(本名・津島修治)の10年ぶりの帰郷は、陽に鮮明な印象を植え付けた。笑みを絶やさない優しい人。親しみを込めて「修ちゃ」と呼ぶようになった。
陽は後に、再び生家を訪れた太宰と近くの山に登った。「金木も活気を呈してきたなあ。民のかまどはにぎわいにけり、だ」。町が一望できる中腹で、太宰は感慨深げにつぶやいたという。
太宰にとっての故郷は、懐かしくも、遠い存在だった。
× × ×
津軽鉄道・金木駅から数分歩くと、赤い屋根の大邸宅が目に飛び込んでくる。敷地面積2250平方メートル、和洋室計19室。座敷は段差によって家長と長男、他の家族、使用人と区別されていた。
明治42年、太宰は新興地主である津島家の6男として生まれた。「金木の殿様」。津島家は周囲からそう呼ばれていた。言葉に込められた羨望(せんぼう)と敵意を、太宰は敏感に感じ取っていた。
生家に近い雲祥寺の住職、一戸彰晃(59)は先代から太宰の話を聞いている。
「子供が遊ぶときは裸足かサンダル。でも修ちゃは革靴なんです。近所の子供はそんな修ちゃに近づかない。だからいつも1人、境内の端でポツンとしていたそうです」
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