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「桜の三大名所」長野・高遠桜のピンクは「武田家滅亡の血の色」
「桜の三大名所」の一つとして知られる高遠城址公園(長野県伊那市高遠町)の桜はタカトオコヒガンザクラと呼ばれ、エドヒガンザクラとマメザクラの交配種。花の形はやや小ぶりで、赤みを帯び、手が届く位置にも咲くのが特徴だ。
城址公園にはこの桜が1500本。これだけの数の同種の桜が純林を成しているのは全国でも珍しいという。
「ここの桜は130年以上前に植えられた桜が元になっているのですよ」
花見客らを道案内している市民グループ「ふきのとうの会」会長の郷土史家で元中学理科教諭、北村勝彦さん(80)の話は日本史をさかのぼる。
時は戦国時代。織田と武田の戦いで、織田信長の長男、信忠が武田方の領地を攻め立てた。他の武田勢が戦わずして城を捨て逃げ去る中、高遠城主で故武田信玄の五男、仁科五郎盛信は織田5万の軍勢を前にこんな言葉を残したという。
「このたびの合戦はもはや武田家の最後と存じます。しかるに、敵の旗も見ないうちに城を明け渡しては、わが武名はもとより武田家の名折れ。城を枕に一同討ち死にする覚悟です」(高遠町歴史博物館『高遠城の戦い』)
天正10(1582)年3月2日午前6時、戦いは始まり10時間後の午後4時、ついに落城した。当時25、6歳だった盛信は城中大広間で割腹、自らの腸を握ると織田方めがけて投げつけたという。
あとには武田勢3000人のしかばねが残った。
北村さんは「高遠の桜が赤っぽいのは、ここで散っていった3000将士の血と情熱が乗り移っているから。そんなことを誇りに持ってきょうまできているのだと思います」。
織田信長が京都・本能寺で明智光秀に討たれたのは、3カ月後の6月2日だった。
時は流れて明治維新。廃藩置県で高遠城は取り壊された。城址は民間に払い下げられ、荒れるにまかされていた。見るに見かねた旧高遠藩士の有志が明治8(1875)年ごろから、城から西へ数キロ離れ現在、高遠小学校のある場所にあった馬の調練場「桜の馬場」にあった桜を移植した。現在もその時に移植された樹齢100年以上の老木20本が、その後に植えられた1500本の桜と並んでピンク色の花をつける。
地元の桜ファン、伊藤直樹さん(42)も幼いころから、小学校の校長だった祖父に「旧藩士たちが、昔の栄華を偲んで植えたのだよ」と言い聞かされて育ったという。桜を植えた有志の名前はひとりも伝わっていない。
桜は何もいわないけれど、われわれの歴史をじっと見つめてきたのだった。
















































