MSN Japanのニュースサイトへようこそ。ここはニュース記事全文ページです。

【街物語】(6)奈良・川西町「貝ボタン」〜移る景色、変わらぬ職人の心 (1/3ページ)

2008.1.13 08:45
このニュースのトピックス街物語
くりぬかれた貝ボタンの原型。輝きを放つ貝の内側がボタンのオモテになるくりぬかれた貝ボタンの原型。輝きを放つ貝の内側がボタンのオモテになる

 周囲を山に囲まれた奈良盆地のほぼ中心にある奈良県川西町。海から遠く離れた小さな街はかつて、磯の香りに包まれていた。未舗装の路地には、キラキラと光る巻き貝や二枚貝のかけら。「海のない街」が、高級シャツなどを飾る「貝ボタン」の製造とともに歩んできた証しでもあった。

 ドイツ職人によって貝ボタンの製造が日本に伝えられたのは明治20年ごろ。川西町で生産が始まったのも明治38年ごろといわれる。

 当初は大阪府内の工場の下請けとして、数軒が始めただけだった。当時の農閑期の副業だった大和木綿の賃機(ちんばた)に代わり、貝ボタンは原料が先貸されたことから普及した。

 ピーク時の昭和20〜30年代。少年時代を過ごした貝ボタン製造「トモイ」の3代目、伴井比呂志(46)は「活気にあふれ、街全体が工場のようだった」と振り返る。約300軒がボタンの製造にかかわり、ファッション業界を支えてきた。

 それぞれの家庭が自宅に作業場を造り、貝を丸くくり抜く「繰り場」、貝の内側に付いたあかを取り除く「塩取り」、ボタンの表面に型を付ける「ひき場」など、それぞれの工程に分かれて精を出した。道端に穴の開いた貝が落ちていたのも、ちょうどこのころだった。

 その後、大量の“もの”が必要となった高度経済成長期に入ると安価なポリエステルボタンが出現し、貝ボタンはシェアを奪われ始める。資金力のない小さな業者は廃業を余儀なくされていった。

 現在、同町内の貝ボタン業者は十数軒しかない。

■■■

 トモイは大正3年に創業した。

 この年に始まった第一次世界大戦による好況で、貝ボタンは真珠などとともに外貨を稼ぐ貴重な輸出品となった。

 その後、盛衰を繰り返しながら、同社は国内シェアの7割を占める最大手メーカーにまで成長した。

 「ここまで続けられたのはクオリティの高さ。先代の頑張りのおかげです」と比呂志は語る。

【街物語】の記事一覧はこちら

このニュースの写真

職人の心と伝統の技を受け継ぐ「トモイ」3代目社長、伴井比呂志さん
くりぬかれた貝ボタンの原型。輝きを放つ貝の内側がボタンのオモテになる
くりぬかれた貝ボタンの選別は職人が手作業で行う
ボタンの表面に型を付ける面削機。デザイナーに届けるサンプル品や欠けやすいデザインなどは今も職人の手で作られる
ボタンに糸穴を開ける「穿孔」と呼ばれる工程
イタリア製のレーザー彫刻機。コンピューターで作成したデータをもとに文字を刻印する。職人がボタンの裏表を確認しながらセットする
貝ボタンメーカー「トモイ」の2代目が開発した彫刻機。ボタンへの細工を一気に進化させた。彫り上がったボタンは掃除機で吸引する
「さらし」と呼ばれる工程。60度で湯煎したバケツに過酸化水素とボタンを入れて漂白する
「さらし」に続いて、「つや出し」が行われる。熱湯とボタンを入れた木桶を回転させ、薬剤を少しずつ垂らす。木桶は通称「テッポウ」と呼ばれる
「つや出し」のあとは「みがき」。ろうびきしたもみとボタンを六角形の木箱に入れてぐるぐる回す
工場には木箱など、昔ながらの機械が並ぶ。いくつもの製造工程を経て、貝ボタンは完成に近づく
出荷直前の貝ボタン。計量の仕方も昔から変わらない。専用のはかり「マース」の裏には「昭和39年新調」とある
「マース」で計量する伴井比呂志さん。マースの溝に貝ボタンをはめると、ちょうど500個になる
彫刻機の刃は職人たちが研ぐ。目盛りをのぞき込み、刃の具合を調べる
彫刻機の刃を削る職人。繊細な技術が要求される
さまざまな工程を経て完成したボタン。奥に積み上げられた箱には、これまでに受注したブランドの彫刻機用紙データが入っている
家と家の間にある路地には古びた貝のかけらが落ちている。町が「貝ボタン」づくりとともに歩んできた証しだ
PR
PR

PR

イザ!SANSPO.COMZAKZAKFuji Sankei BusinessiSANKEI EXPRESS
Copyright 2008 The Sankei Shimbun & Sankei Digital
このページ上に表示されるニュースの見出しおよび記事内容、あるいはリンク先の記事内容は MSN およびマイクロソフトの見解を反映するものではありません。
掲載されている記事・写真などコンテンツの無断転載を禁じます。