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【街物語】(1)「乙吉のだるま」 八雲が見つけた「日本」今も (3/3ページ)
4代目にあたる吉紀は鰹と決別し、昭和35年に東京の大学に進み、そのまま東京で建築士の道を歩んだ。
「乙吉の曾孫」と意識したことはない。
戦争、第五福竜丸「死の灰」事件…。八雲と乙吉が逝った後の焼津は歴史の渦に巻き込まれ、都市化が進んだ。
八雲が乙吉宅から歩いたであろう海への道は舗装され、埋め立てられ、海は遠のいた。
堤防はどんどん高くなり、車で走るとそこが海岸線だとは気が付かない。
光景は変わった。けれども、焼津には今も八雲を慕う心が残っている。
八雲が見た、8の字の頬ひげが特徴の「藤枝だるま」を「八雲だるま」「乙吉だるま」としのび、地元のだるま市はにぎわいを見せる。
かつて乙吉宅があり、八雲が歩いた道を「八雲通り」と親しみ、荒波で首が欠けて八雲が心を痛めたという路傍の波除け地蔵を「八雲地蔵」と呼んで、手を合わせ、線香や花を手向ける人々がいる。
年齢を重ね吉紀は、八雲との関係を自分にことさら説明しなかった祖父や父の気持ちが分かるようになってきた。
「祖父も父も、八雲と乙吉の関係を山口家だけのものでなく、乙吉という典型を焼津の人々に昇華させ、普遍化して考えていたのでしょう」
地道で厳格だった祖父が陰で物乞いに食べ物をあげ続け、僧になった物乞いからお礼に木彫りの大黒様を贈られていたことを後に知り、吉紀は驚いた。
独特の相場観を持ち、当時としてはまだ斬新だった貿易技術に通じながらも、家業を畳む時期に直面した父は「乙吉の孫」と言われるのは苦痛だったろう。それなのに乙吉について聞かせてと地元の子供が来ると、嫌な顔ひとつせず、親切に教えた。
「へえ」と八雲を包み込んだ乙吉の優しい血は脈々と流れているのだろう。
吉紀は最近になり、なぜかだるまに愛着を感じる。
同僚が独立したとき無意識にだるまを贈り、相手から「え?」と反応され、思わず苦笑してしまう。
「両目を入れた乙吉の気持ち、今はよく分かります。だるまを通じ、最大限の愛情表現をしたのでしょう。そんなだるまの習慣だけは、子供たちに伝えていきたい」
八雲が愛した乙吉はこんな表情をしていたのだろうか。そう思わせる柔和な目尻をさらに下げ、4代目乙吉は目のない八雲だるまの頭をなでた。
■小泉八雲 ギリシア生まれ、米国の新聞社に勤務し西インド諸島などを回って明治23年来日。松江、熊本で教師を勤め、「知られざる日本の面影」「心」などを執筆。帰化し、ラフカディオ・ハーンから改名。西洋物質文明を批判し、日本人の精神や文化を高く評価、日本を書き続けた。焼津を扱った作品に「焼津にて」「乙吉のだるま」「漂流」「海のほとりにて」などがある。
=敬称略
(文 井口文彦)
(写真 飯田英男)
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忘れられない「街」がある。大切にしたい「物」がある。人の生きように、さまざまな形でかかわってきた街や物。その思いを語る。
【この連載は1〜5日は毎日更新し、以降は毎週日曜日に更新します】









































