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【街物語】(1)「乙吉のだるま」 八雲が見つけた「日本」今も (2/3ページ)
言葉は少ないが、異人の八雲の身を案じたのだろう。11歳だった長男、梅吉に商売を任せ、乙吉は海に散歩に付き添った。八雲が散歩すると、近所の子供たちはぞろぞろと八雲の後をついてゆき、乙吉は「見せ物だにゃあよ」と戒めた。手が離せないときは、梅吉に「先生さまと一緒に行け」と伴をさせた。
八雲を厳しく叱りつけたこともある。
盆の精霊送りの夜、八雲は沖へ流れる数百の灯籠を追って1人で海に入り、灯籠を追って泳いだ。探し回った乙吉は、盆の海がいかに不吉であるかを説明し、こう怒ったのだ。
「今夜は海は精霊様でいっぱいだにのぉ」
「こんな晩に、なんぼ泳ぎが達者だからって、泳ぐもんじゃにゃあです」
「河童(かっぱ)だって溺れ死にますでな」
裏表がなく、実直そのものの乙吉を、八雲は「乙吉サーマ」と呼んだ。6歳年下の乙吉は「先生さま」と呼んだ。
《乙吉様、神様のような仁です》
八雲はここまで言い切っている。猜疑心(さいぎしん)の強かった八雲が、ここまで個人を賞賛したのは珍しい。
今は東京で生活する山口吉紀は、乙吉の曾(ひ)孫である。
八雲が焼津で発見した「小さな神」の1つがだるまだった。
八雲はこう書き残している。
《こういう面白い小さな神が、日本にはたくさんある。そして、こういうとぼけた神を拝む人々はほとんどが、こちらがいたく感動するほど正直であることを知った。素朴な神であるほど、それを崇める人は、それだけ正直である、と信じてよいであろう》
《これだけは言っておきたい−−こうしたごく小さな神、おもちゃのような神々を信仰することは、素朴な心の持ち主でなければできないことで、こういう素朴な心は、邪悪なこの世にあっては、純な善良さに最も近いものである》(いずれも『乙吉のだるま』より)
その素朴な、当時の焼津の人々について八雲がどう考えていたか、長男の一雄がこう書いている。
《父は私に土地の赤銅色の子供達を決して侮辱してはならぬ。もし焼津の子等と喧嘩することがあれば、それは必ずお前のほうが悪いのだ。お前の心に邪な点があるからだ。焼津の子供はあるいは粗野かも知れぬが皆正直だ。決して嘘吐(つ)きや意地悪は居ないのだから、彼等には常に温情をもって臨めと厳しくいい渡されていました》(「父『八雲』を憶う」より)
乙吉宅の棚に並ぶだるまが片目であるのを八雲は不審に思い、乙吉に尋ねた。
「だるまさまの左の目は子供がつぶしたですか?」
乙吉は「へえ」と例の調子で答え、もともと両目とも入っていないのだと説明した。
「あたくしんとこで去年、右の目を入れましたんで。大漁のありました後で」
「どうして両方の目を入れてあげませんか? 1つでは何だかかわいそうで」
左目を失明していた八雲は、左目のないだるまを不憫(ふびん)に思い、こだわったのだろう。
そんな思いを乙吉は察したらしい。「へえ」と笑い、優しく言った。
「今度うちでも大吉がきたら、そんときにもう片っぽの目玉を入れてやります」
このやりとりは『乙吉のだるま』に描かれている。
その最後。
焼津を去る早朝、八雲は例のだるまに左目も入っていることに気づくのだ。
なぜその日、乙吉は両目を入れたのだろう。
八雲の目をおもんばかったのか。支払われた宿泊費の多さを喜んだのだろうか。
余韻を残しながら、『乙吉のだるま』は終わる。
明治30〜37年に6度乙吉宅を訪れた八雲は、最後の訪問から30日後、狭心症で逝く。
山口家は大正10年に乙吉が死去すると、長男の梅吉が2代目乙吉を襲名した。3代目とともに店を屈指の大手鰹節商に発展させる。
だが、その後、倒産した。
焼津に乙吉の家はもうない。









































