ニュース: 生活 RSS feed
【街物語】(1)「乙吉のだるま」 八雲が見つけた「日本」今も (1/3ページ)
少年時代の山口吉紀(よしのり)(66)にとって、「だるま」は日常的な光景だった。
生まれ育った静岡県焼津市の鰹節(かつおぶし)工場。鰹を茹(ゆ)で、燻蒸(くんじょう)させる職人たちが行き交う傍らの部屋の棚に鎮座していた5〜6個のだるま。
いずれも片目。
両目を入れてもらおうと、だるまたちは一生懸命、福を呼ぶのだ。
家のだるまを意識したのは小学校6年のときだ。小泉八雲の『乙吉(おときち)のだるま』を先生から読み聞かされ、曾祖父と八雲の交流を知った。「でも」と、吉紀少年はだるまを見上げ、思った。
《なぜ曾(ひい)じいさんは八雲の出発の日、だるまに両目を入れたのだろう。うちのだるまはいつも片目だったのに》
ラフカディオ・ハーンが初めて焼津を訪れたのは明治30年8月。東京帝国大学の講師を勤めていた時代の夏休みだ。
セツ夫人と結婚し、既に八雲に改名していた。
水泳が大好きな八雲は荒海を求めて来たが、最初に泊まった旅館で外国人を差別する主人の陰口に怒り、飛び出す。
八雲にとって、焼津の第一印象は悪かったに違いない。
宿を失った八雲一行は、同行した松江中学時代の教師仲間の下宿のおかみさんの紹介で、山口乙吉の家を訪ねた。
訪ねたとはいうが、実際は押しかけに似たようなものだったらしい。
乙吉は当時41歳。早朝から天秤棒を肩に魚を売り歩き、鰹節を作り、仕出しもする朴訥(ぼくとつ)な魚商だった。
多忙な盆時、乙吉にとって宿泊客など迷惑だったろう。が、困っている人を放っておけない性分だったらしい。「へえ」と優しく笑い、2階を提供した。
当時の焼津はひなびた漁村だったが、八雲には古き良き日本と映った。人々の信仰心、質素な暮らし、隣人を思いやる優しさに感動する。
人知を超えた海を生活の場とする焼津人にとって、信仰と互助なしで生活は成り立たない。彼らが崇(あが)める「神」や「霊」に、八雲は「日本人」を見た。
何かと焼津の暮らしや慣習を問う八雲に、乙吉はいつも「へえ」と目元を緩めて答えた。









































