ライフ【歴史にみる災害列島】国宝・彦根城の「地震の間」+(1/2ページ)(2013.4.29 09:34

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【歴史にみる災害列島】
国宝・彦根城の「地震の間」

2013.4.29 09:34 (1/2ページ)歴史・考古学

 ■経験が培った敬服すべき設計

 国宝・彦根城(滋賀県彦根市)の本丸は、築城前に繰り返し起きた地震の教訓から、強固な岩盤の上に築かれたと前回記した。この彦根城には、もうひとつ、当時の地震対策上、画期的ともいえる建築物が存在した。

 城主である井伊家は文化9(1812)年、11代藩主の直中(なおなか)が隠居するにあたり、下屋敷の大規模な増改築を行った。その際、ここに「地震の間(ま)」が設けられたのだ。

 彦根市教委文化財課によると、この地震の間は「記録上はお茶座敷とされており、ふだんは茶の湯に用いられていた」という。

 地震の間の建設は、築城から200年余りが過ぎた文化11(1814)年ごろとされる。その背景について、京都造形芸術大の平成22年の論文「伝統的木造建築における耐震補強に関する研究」(岩田有美子氏、指導・中村利則教授=中近世住宅史)は、「天明5(1785)年7月に14度の地震、同8(1788)年6月9日に4度の地震、享和2(1802)年の彦根大地震など、彦根において度々の地震発生が造営の起因であったのだろう」とする。

 しかしながら、下屋敷の立地は本丸とは大きく異なり、埋め立て地の軟弱な地盤だったという。昭和15年に調査した東京帝国大(当時)の齊田時太郎氏は「敬服すべき設計」と評価したが、その実態はどういったものだったか。

 現地を訪れると、外観からすぐ分かるのは、地震の間がゴツゴツした大小多数の岩石の上に置かれていることだ。これは、本丸と同様、立地の地盤を意識したものと考えられる。

 構造物の特徴については、京都造形芸術大の論文から借りる。

 全体的な特徴としては、土壁を極力廃し、ふすまと障子を多用。屋根は薄い板を使った柿葺(こけらぶ)きであり、江戸城の記録や、御所に現存する地震の間と同様、軽量化が図られていた。また、建物全体の重心を低くとっている。

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