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【名古屋あのね話】知られざる薩摩義士伝 (1/2ページ)
その昔、名古屋は海だった。古代人は畿内から伊勢湾西岸を伝って船で東国に通じていたという。だから東海道は「東の海の道」。平安時代の書物には東海道と書いた脇に「うみつみち」と仮名が振られている。
その伊勢湾の河口近く、木曽川、長良川、揖斐川の木曾の山中から流れ出したいわゆる木曾三川(さんせん)が注ぐあたりには、大河が大量の土砂を運んで「州」ができた。肥沃(ひよく)な土壌に魅せられた人たちは州に定住し、周りをぐるりと堤防で囲み、内側に田んぼや家を建てる「輪中」がいくつもできていった。
だが、家も田も川より低い低湿地帯だ。大雨で川が水かさを増すたび、住人たちは幾度となく洪水に苦しめられた。川が堤防を破っても水浸しにならないよう小高いところに石垣を積み上げて家を建て、いつでも避難できるように小船を用意しても、被害は減らなかった。
1753(宝暦3)年8月、濃尾平野一帯に数十年ぶりの大洪水が起こり、江戸幕府はようやく重い腰を上げた。11月、薩摩藩に木曾三川の治水工事を命じたのだ。関ヶ原の合戦で敗れたものの77万石を誇る外様大名、薩摩藩は幕府にとって目の上のたんこぶ。普請命令は薩摩の弱体化を図るものだった。
翌1754(宝暦4)年2月、家老の平田靱負(ゆきえ)を総奉行とする947人が1200キロメートル離れた薩摩から到着し、工事が始まった。宝暦の治水事業である。
決壊した堤防の復旧と、堤防を強化して川の流れを分けるのは簡単ではなかった。しかも幕府は高札を立て、「食事は一汁一菜」「草履も、みのも安く売るな」「悪口を聞いたら密告しろ」などと地元住民に薩摩藩士への協力を禁じた。慣れぬ土地での重労働、不衛生な宿舎や粗末な食事が重なって赤痢などの疫病が発症。医師も薬もなく157人が倒れ、33人が亡くなった。抗議の割腹自殺者も51人に上った。

