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【街物語】(17)「穴太積み」 石と対話、育む技術 大津市坂本 (1/3ページ)
『石の声を聞き、石の心を知り、石の心を己が心として永久に居心地よく居座るよう一つ一つを大事にして据付ける』
亡き先代にたたき込まれた言葉は一言一句、忘れるはずもないが、それでも粟田純司(67)は時々、部屋の額に目をやる。「穴太(あのう)積み」と呼ばれる技法を唯一、現代に受け継ぐ石工集団「穴太衆」の「第13代石匠」だった父、万喜三(まきぞう)が書き残した“家訓”だ。第14代を継いだ純司が、若手の職人に繰り返し聞かせる言葉でもある。
比叡山延暦寺の門前町、大津市坂本の家々を囲うのは、深緑のコケに覆われた石垣だ。町の隅々まで張り巡らされたさまは、大木の根のようでもある。石を加工せず、そのまま組み合わせる穴太積みは、単純に積み上げられた石の壁のようでありながら、絶妙なバランスで、数百年間、石一つ抜け落ちずにその姿を保つことも珍しくない。
「崩れそうで崩れないのが、穴太の石積み。200年もたすつもりで作ってますから」。穏やかに笑う純司の目には職人としての矜恃(きようじ)が宿る。
純司は大学で土木工学を学び、「石工では食っていけん」と卒業後に滋賀県庁の就職試験をこっそり受けた。万喜三は自宅に届いた合格通知を純司の目の前で破り捨て、激しいけんまくで言い放った。
「4年間も無駄飯食ってきたんやから、これ以上の無駄はいらん。30になってからでは、積み方は覚えられん」「食っていけるかどうかより、後世に伝える仕事ができるかや」
大小の自然石の配置を決める独特の感覚を習得するには、10年を要するといわれる。元々は、比叡山の急峻な地形と、厳しい寒さに耐え得る寺院建築として技術を高めてきたが、比叡山を焼き討ちした織田信長がその堅牢さに驚き、穴太積みで安土城の石垣を施工するよう命じたのがきっかけで、城郭建築に取り入れられるようになったと伝えられる。外敵が登りにくく、崩れにくいとの評判はまたたく間に広がり、最盛期には約300人の職人が坂本を本拠地として、全国で活躍。現存する城の石垣の約8割は、穴太衆が手がけたともいわれている。







