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【街物語】(14)古都に残った木版画の匠 (1/3ページ)
金閣寺から竜安寺に抜ける観光道路「きぬかけの道」を歩くと、ほどなく小さなギャラリーにたどり着いた。扉をくぐると、壁に掛けられた色鮮やかな木版画の数々が視界に飛び込んでくる。
海外からの観光客もよく立ち寄るらしい。ノルウェーから来た若い女性2人が、作品とじっとにらめっこしたあと、意志が通じたかのように小さくうなずいた。「グラフィック」。生き生きしている、という意味なのか。ギャラリーの隅にいた作者を見つけ、とびきりの笑顔で記念写真をせがんだ。
井堂雅夫(62)は、白髪をかき上げながら、ちょっぴり照れくさそうに写真に納まった。木版画ギャラリー「雅堂」の経営者で、京都では数少なくなった木版画の作り手である。
中国から伝わったとされる木版画。下絵を描く絵師、彫刻刀で版木を削る彫師、色を仕上げる摺師。おのおのの巧が結集して、ひとつの作品ができあがる。井堂は絵師のひとりだ。
江戸時代には歌川広重ら後世に名を残す浮世絵版画師が現れ、大量生産できる手軽さから庶民の間に広く流通した。
「芸術作品だけじゃない。ふすまや扇子の絵柄…、江戸時代は人々の生活の中に、当たり前のように木版画が生きていたんや」
京都にもかつて、50人を超える職人たちがいた。だが戦後、印刷技術の発達とともに、手間とコストのかさむ木版画は廃れていく。食えない稼業には後継者は集まらず、作り手は高齢化していった。
京都に働きに出たのは15歳の秋のことだ。時代は高度成長期。中学生が貴重な労働力として、「金の卵」ともてはやされた。絵を描くことが誰よりも好きだった井堂は故郷の盛岡から、染め物職人に弟子入りした。
23歳のとき、知り合いの画商に連れられ、初めて木版画の制作の過程を目の当たりにし、職人たちの技術にほれ込んだ。
「何がどうとかの理屈じゃない。直感が働いた。とにかく絵が好きやったし、打ち込むべきはこれなんや、とね」。恋人に出合ったような思いで木版画の勉強を始めたが、木版画はすでに時代から取り残されつつあった。








