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【街物語】(8)過酷な開墾経て「楽園」 “北のパラオ”宮城県蔵王町 (1/3ページ)
「パラオ島マルキョク村」
宮城県南西部、蔵王連峰のふもとで酪農を営む工藤静雄(66)の戸籍謄本には、耳慣れない地名が記されている。それは日本から遙か3000キロも南のかなたに浮かぶ島。静雄がわずか5歳で、家族と命からがら逃げ出した島でもある。かすかに残る記憶はつややかな木々の緑と、たらいをひっくり返したようなスコール。「自分の生まれた場所を、一度はこの目で見てみたい」。還暦を過ぎた今もなお、あの島を思わずにはいられない。
70年以上前、広大な土地と豊かな作物を求めて南洋の島にわたった人々がいた。国内不況や入植政策、第二次世界大戦という時代の渦に翻弄(ほんろう)され、やがて北の大地にたどり着いた彼らは、貧しさや寒さと戦いながら再びくわとすきをふるい、土地を耕し始めた。極寒の雑木林に南の楽園の面影を託し、「北原尾(北のパラオ)」と名付けて。
《島で暮すならパラオ島におじゃれ 北はマリアナ 南はポナペ 浜の夜風に椰子の葉ゆれて 若いダイバの船唄もれる》(「パラオ小唄」)
昭和12年。南へと向かう船の中で、入植者たちがこんな歌を口ずさむ中、左崎美加子(75)は小さなガラス窓から、じっと変わりゆく景色を見つめていた。郵便局員の父や母、弟妹とともに到着した島を行き交っていたのは、大勢の日本人。小学校から橋、神社まで何でもあった。「活気にあふれ、まるで日本の街そのものだった」
福島県出身の実業家が大正11年、サイパン島を開墾してサトウキビ栽培を始めたのを皮切りに、近隣の南洋諸島へも日本からの入植者が広がっていった。開発の成功だけでなく、国内で長引く不況も入植を後押しした。中でも逼迫(ひつぱく)した生活を余儀なくされていた小作農家では、耕す土地さえ与えられない二男、三男が働き口を求め、南へ向かった。入植者は増え続け、昭和15年にはパラオ島の日本人だけで3万5000人を超える規模となる。






