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【街物語】(8)過酷な開墾経て「楽園」 “北のパラオ”宮城県蔵王町 (1/3ページ)

2008.1.27 11:40
このニュースのトピックス街物語
自宅横の牛舎で牛にえさをやる工藤静雄さん=宮城県蔵王町遠刈田温泉北原尾自宅横の牛舎で牛にえさをやる工藤静雄さん=宮城県蔵王町遠刈田温泉北原尾

 「パラオ島マルキョク村」

 宮城県南西部、蔵王連峰のふもとで酪農を営む工藤静雄(66)の戸籍謄本には、耳慣れない地名が記されている。それは日本から遙か3000キロも南のかなたに浮かぶ島。静雄がわずか5歳で、家族と命からがら逃げ出した島でもある。かすかに残る記憶はつややかな木々の緑と、たらいをひっくり返したようなスコール。「自分の生まれた場所を、一度はこの目で見てみたい」。還暦を過ぎた今もなお、あの島を思わずにはいられない。

 70年以上前、広大な土地と豊かな作物を求めて南洋の島にわたった人々がいた。国内不況や入植政策、第二次世界大戦という時代の渦に翻弄(ほんろう)され、やがて北の大地にたどり着いた彼らは、貧しさや寒さと戦いながら再びくわとすきをふるい、土地を耕し始めた。極寒の雑木林に南の楽園の面影を託し、「北原尾(北のパラオ)」と名付けて。

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 《島で暮すならパラオ島におじゃれ 北はマリアナ 南はポナペ 浜の夜風に椰子の葉ゆれて 若いダイバの船唄もれる》(「パラオ小唄」)

 昭和12年。南へと向かう船の中で、入植者たちがこんな歌を口ずさむ中、左崎美加子(75)は小さなガラス窓から、じっと変わりゆく景色を見つめていた。郵便局員の父や母、弟妹とともに到着した島を行き交っていたのは、大勢の日本人。小学校から橋、神社まで何でもあった。「活気にあふれ、まるで日本の街そのものだった」

 福島県出身の実業家が大正11年、サイパン島を開墾してサトウキビ栽培を始めたのを皮切りに、近隣の南洋諸島へも日本からの入植者が広がっていった。開発の成功だけでなく、国内で長引く不況も入植を後押しした。中でも逼迫(ひつぱく)した生活を余儀なくされていた小作農家では、耕す土地さえ与えられない二男、三男が働き口を求め、南へ向かった。入植者は増え続け、昭和15年にはパラオ島の日本人だけで3万5000人を超える規模となる。

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自宅横の牛舎で牛にえさをやる工藤静雄さん=宮城県蔵王町遠刈田温泉北原尾
アルバムを手に、北原尾の開拓当時について語る左崎美加子さん(右)と工藤静雄さん=宮城県蔵王町遠刈田温泉北原尾
パラオ島での思い出を振り返る左崎美加子さん。現在は酪農などで生計を立てている=宮城県蔵王町遠刈田温泉北原尾
北原尾への移住当初、入植者たちはササで屋根を覆った粗末な小屋で暮らした(入植40周年記念誌「北原尾のあゆみ」より)
パラオ島など南洋から帰国し、北原尾に移住した人々。北原尾では、過酷な開墾作業に従事した(左崎美加子さん提供)
集落にほど近い平野に立つ、工藤静雄さん。帰国した入植者たちは、雑木林を切り倒して畑を開いた=宮城県蔵王町遠刈田温泉北原尾

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