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【竹内薫の科学・時事放談】恩師 「あづさ弓」を読むように (1/2ページ)
今回は私の仕事の原点について書いてみたい。実は、今週は偶然、2日続けて2人の恩師と再会したのである。
高校の担任であり古典が専門の黒沢弘光先生が3月で退官されることとなり、その最終講義に30年前の卒業生が集った。黒沢先生は漢和辞典の編纂(へんさん)もされるほどの「言語屋」だが、高校時代は源氏物語の講読で猛特訓を受けたおぼえがある。原文をノートに書き写して、原文の横に品詞分解、さらにその横に口語訳を書いて提出するのである。とはいっても宿題ではない。生徒が自主的にノートを作成して提出すれば、先生は赤で添削をしてくれる。実際には、クラスのほとんどがノートを提出していたから、今から考えると先生の毎週の負担は並大抵のものではなかったはずだ。学問的な実力と教育への情熱がなければ、できるものではない。
最終講義は伊勢物語第24段の「あづさ弓」であった。いまだ衰えを見せぬ先生の熱血授業は、古語を生き生きとした感情の世界へと呼び戻し、学問的に疑問符がつく注釈を徹底的に分析する。私は長い間忘れていた「何か」を思い出させてもらった気がした。
高校時代、私は「文系コース」だったので、数学や理科よりも古典や漢文の勉強に時間を割いていた。ところが法学部進学課程に入った私は心変わりし、「理系コース」に鞍(くら)替えして、科学史・科学哲学を学ぶことになった。そして、卒論の指導教官が村上陽一郎先生だった。
村上先生には科学論や科学社会学の重要性を学んだが、たまたま、さる企業の論文誌の対談で20年ぶりに再会したのだ。指導教官に20年もあいさつに行かないのは私の素行の問題だが、実は、卒論自体も(今から考えれば)常識はずれの内容で、先生には在学当時から迷惑をかけっぱなしなのである。
対談では、「なぜ日本人はアメリカ人の10分の1しか科学誌や科学書を読まなくなってしまったのか」という「科学技術立国」日本が抱える深刻な問題を取り上げさせてもらった。その解決の一端は、もちろん私のようなサイエンスライターの肩にかかっているわけだ。

