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【遙か ハンセン病隔離100年】(1)忌み嫌われた病気 (1/2ページ)
罹患が分かったとき、「身の始末」をつけようとした。古来忌み嫌われた病。偏見や差別は家族にまで及ぶ。「戦地で死んだ方がましだったかもしれない」。悲しげな目で振り返った。
ハンセン病療養所の邑久光明園(岡山県瀬戸内市)で暮らす望月拓郎さん(81)。療養所の生活は62年にもなった。兵庫県出身の望月さんが発病したのは16歳。昭和18年、学校の健康診断で校医が発見、学校は退学させられた。
この病気にかかると皮膚は激しくただれて手足が変形し、容貌は別人のようになっていく。「恐ろしい伝染病」「家族も血筋と疎(うと)まれる遺伝病」などと根強い偏見があった。
「教師になりたかったんです。でも退学させられて夢も希望もなくなった。危険なところに身をさらせば、身の始末、つまり命を絶つことができると思って」
第二次世界大戦で軍の輸送船の船員に志願し、マニラやボルネオなど戦地を回った。無事に帰還しても家族には「私のことは忘れてくれ」と伝えた。
昭和22年、大阪駅周辺を歩いていると、大阪府の担当者に顔がただれているのを見つけられ、邑久療養所へ連行された。
療養所は当時、ゴーストタウンのようだった。赤痢や栄養失調で入所者がどんどん亡くなっていった。その数は3年間で300人にもなったという。
「食事は真っ黒いご飯でしたね。みそ汁もないから、おかずによく出たのはオキアミ。塩漬けがちょっと出るんですよ」
入所後は両親にも兄弟にも会えなかった。連絡しようと手紙を出そうにも、噴射された消毒液のにおいで近所に病気のことがばれるから出せないのだ。
療養所の友人からはこんな話を聞かされた。ある日療養所から許可をもらって外出した。だが列車に乗車中、車掌に見つかって降ろされた。駅員にホームの端に連れて行かれチョークで直径1メートルほどの円を描かれて、その中に入るよう命じられた。屈辱だった。文句一つ言わずに、そのまま療養所へ帰ったという。