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【わが道わが友】ヤマハ会長・伊藤修二氏(2)国内営業から海外暮らしへ
ヤマハのビジネスモデルは、畑を耕して種をまき、実を刈り取る農耕型だ。音楽教室を展開したり、学校や職域のバンドなどを支援したりして音楽を楽しむ人の輪を広げることで、楽器の需要を生み出している。だから、営業マンは単なる卸販売ではなく、特約店と一緒になってお客さまのところまで訪問し、そうした需要創造に取り組むことが求められる。
私は入社して本社での研修と短期間の実務を終えた後、東京に赴任。12、13の大規模特約店を担当する組織に配属され、営業マン生活をスタートした。
当時、ピアノは品薄であったため、優位な立場で仕事ができていた。しかしながら、特約店からは、さまざまな苦情や要望がもたらされた。当初、そうした特約店からの宿題をいちいちメモしていた。すると夢にまで出てくるようになった。これでは体が持たないと思い、メモを取るのをやめた。その代わり、事務所に電話して対応してもらうなど、できるだけその場で宿題を片づけるようにした。
宿題をすべて完璧(かんぺき)にこなそうとするといつまでも終わらない。即断即決すれば、少なくともプライオリティーの高い仕事から優先的に片づけられる。自然と特約店の評価が高まった。また、都合の悪い話のときでも、誠心誠意で相手にぶつかれば道が開けることも悟った。以来「即断即決」「誠心誠意」を信条にしている。
神戸支店長を務めていた昭和55年、米国の販売子会社への転勤辞令をもらった。それまで海外勤務は外語大出身者などに限られていたのを当時の河島博社長の方針で、国内営業の経験者にも広げることになったのだ。神戸市の英会話教室に通い、3カ月間必死に勉強してからロサンゼルスに赴任したものの、ネーティブの英語が聞き取れず、ほとんど仕事にならなかった。
半年後に、スウェーデンの販売会社に社長として赴任。ハンブルクに本拠を置く欧州統括会社の傘下から独立し、北欧全体をカバーする会社へと切り替える仕事を担当した。幸い、現地では英語が日常使用される言葉ではないので、当初はトップの権限で、理解できるまで説明させてから決裁書にサインしているうちに次第に慣れてきた。
もともと労働組合の力が強い国で、私が赴任した直後の賃上げ要求でも、賃上げ原資の配分を組合に任せるように迫られたが、「そんなばかなことはない」と断固拒否し、結果的に、経営側の人事考課に基づいて配分した。組合が配分を実施すれば全員一律の賃上げにせざるを得ず、逆に悪平等になるはずだ。
とても自然が美しい国で、家内と一緒にあちこちにドライブした。ただ、どこも同じような景色なので1年もすると飽きてくる。そこで、夏休みには大陸に渡って史跡巡りなどを楽しんだ。
3年半を経た59年、今度は英国に転勤した。

