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【わが道わが友】NEC会長・佐々木元氏(2)半導体にスケールの大きさ予感
昭和30年に東大教養学部理科I類に入学したが、講義がやたら難しい。理科I類の学生が単位を落とす恐怖の的は、図学と第2外国語だった。第2外国語は成蹊時代に幸いにしてドイツ語をやっていたので助かったが、図学は円錐(えんすい)や三角錐(さんかくすい)が交わったような複雑な製図を頻繁に描かされ、とても難儀した。当時、学生に人気があったのは原子力や石油化学、電子計算機。私は図学があるから原子力などの機械は早々にあきらめた。石油化学も分析の実験にてこずったのでやめることにし、消去法で電気が残った。
理科I類のクラスメートにIHI(旧石川島播磨重工業)相談役の伊藤源嗣君らがおり、戸田の寮までよくマージャン合宿に行ったものだ。昨年、会長を退いた伊藤君のために慰労会をやろうと当時の仲間と話をしているところだ。
大学では鉄道好きが高じて鉄道同好会に入部した。もっぱら車両の研究ばかりやっていたが、NEC会長になった後の平成15年に蒸気機関車を実際に運転させてもらう機会があった。中国の半導体の合弁相手、首鋼総公司が北京の工場敷地内に保有していた蒸気機関車で、熟練を要する運転をこれまでの知識をもとに難なくこなすものだから、相手の機関士が「本当に初めて運転するのか」と驚いていた。
昭和34年に大学院の修士課程に進むことになり、電気の中でも半導体は量子力学なのでかっこいいと思い、柳井久義研究室にお世話になることにした。ようやく集積回路というものが見え始め、ポテンシャルが議論された時代。システムLSIなどという言葉は当然なかった。ただ、スケールの大きな仕事ができる予感はあった。
柳井研究室はNECとの間で固体回路研究会を立ち上げていて、これがNECに入社するキッカケになった。柳井先生は大学に残ることを勧めてくれたが、研究していた超高速のデバイスは大学では作れない。作るには道具や資金のある企業に行かないとダメだと自分なりに考えた結果だった。
入社した36年度のNECの売上高はまだわずか462億円。そのうち半導体は約40億円で1割にも満たない規模だった。それがピーク時に1兆円を超えるビジネスになるとは当時は思いもしなかった。入社後まもなく社外留学として柳井研究室に舞い戻り、約1年の間、集積回路研究の研鑽(けんさん)に励んだ。
41年に社内に分散していた集積回路研究を一本化するため集積回路設計本部が新設され、通信機器やコンピューターなど専門が異なる多士済々のメンバーが集まった。この多彩さが後に世界首位になるNEC半導体の原動力のひとつになった。

