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【わが道わが友】モバイル・インターネットキャピタル社長 西岡郁夫氏(1)

2008.10.15 03:44
このニュースのトピックス就職・転職
住吉高校ハンドボール部に入部したころの西岡氏(後列右端)=昭和35年夏、大阪市の住吉高校校庭住吉高校ハンドボール部に入部したころの西岡氏(後列右端)=昭和35年夏、大阪市の住吉高校校庭

 ■家庭教師で母との2人暮らし支える

 昭和18年に大阪市住吉区で生まれた。内縁関係だった両親が小学校に入る前に別れていたのを負い目に感じて、学校では「お父さんは戦死した」ということにしていた。母は私と2人の姉を懸命に育ててくれたので、中学で林間学校の参加費用が払えないと知るまでは、家が貧しいと意識したことはなかった。

 嫌だったのは、学校の家族調査票で家族全員の学歴を書かされることだった。母は小学校卒、しかも父親の名前が書けない。当時はテテナシゴという言葉もあり肩身の狭いもので、夜、布団の中で「役場に忍び込んで戸籍簿を焼き捨てたい」と真剣に考えたこともある。大阪大学を卒業する時に内定した就職を後日取り消され、1年間の就職浪人を余儀なくされるという実害もあった。

 しかし、ネアカな性格が幸いして学校では良い子で人望もあった。優等生で、野球では小学5年生の時に学校代表チームに入った。6年生の時には生徒会長に選ばれ、朝礼の壇上から全校生徒に「気を付けっ、前にならえ!」と号令を掛けていた。母はこっそりのぞきに来ていたらしい。つらい生活の中で私が唯一の夢だったのだ。

 府立住吉高校ではハンドボール部に入部、2年生の時はキャプテンでポイントゲッターだった。激しい練習に明け暮れても成績は下がらないことを証明して仲間の退部を食い止めるために勉強も適度にしたが、この年までさしたる病気もなく、丈夫でいられるのはあのときの激しい運動のおかげだと信じている。

 住吉高校の先輩には作家の堺屋太一さんや経済学者の中谷巌さんらがおられ、いまでも年に2回ほど「住吉会」と称して卒業年度の違う10人ほどが夕食を楽しんでいる。とくに堺屋先生にはベンチャー支援でもいろいろとご指導を願っている。

 阪大工学部に入り、就職浪人を経て大学院に進んでからも月火水木金土日日と日曜日はダブルヘッダーで家庭教師をして生活費を稼いだ。その月収2万4000円に奨学金の4500円(修士では9000円)。それが、母と2人暮らしのわが家の全月収だった。ちなみにシャープの初任給は3万7000円だった。

 家庭教師は「ティーチング・イズ・ラーニング」で自分自身の大変いい勉強になった。家庭教師で英語力を鍛えたことが、後に外資系のインテルに転職する一因になったとも思う。

 昭和44年4月、シャープに入社。翌年1月のある土曜日の朝、休日出勤しようとする私を「今日は休んでくれないか」と母が弱々しく呼び止めた。その時は既に脳出血を起こしていたのだ。医者を呼んだが、数時間で帰らぬ人となった。母親に楽をさせてあげられなかったのが悔しかった。独りぼっちでワーッ!と泣いた。文字通り天涯孤独になり、もう失うものはないという覚悟が定まった。

                  ◇

【プロフィル】西岡郁夫

 にしおか・いくお 平成4年、シャープ情報システム本部副本部長からインテル(日本法人)副社長に転じ、5年に社長、9年に会長。11年から現職。

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住吉高校ハンドボール部に入部したころの西岡氏(後列右端)=昭和35年夏、大阪市の住吉高校校庭

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