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【わが道わが友】アサヒビール会長・池田弘一氏(2)
■卸会社へ出向、流通側の視点学ぶ
昭和52年に千葉営業所に転勤し、翌年3月に開港予定だった成田空港のターミナルビルに入居する飲食店向けの営業などを担当した。ある日、取引先卸会社の千葉県酒類販売から「免税店への納入権を得たので、免税酒類に詳しい人材を派遣してほしい」と相談された。そこで、本社に要望書を提出すると、なんと私が出向する羽目になった。
当時、アサヒビールは業績が低迷していて、卸会社への出向は「片道切符」といわれていた。「どうせ卸で働くのなら故郷が良い」と思い、九州時代の卸会社の知り合いに電話で転職相談したほどだ。結局、千葉県酒販の人に説得されて、同社の成田支店長として出向した。
過激派による管制塔破壊事件などがあって成田空港の開港は2カ月遅れたが、開港後はニュータウンなどもできて、千葉県酒販の業績は爆発的に拡大した。卸会社だからアサヒ以外のビールも取り扱う。取引先の酒販店がスーパーを出店したため、経験したことがない食品の取り扱いも開始した。この時代に酒類業界や食品業界全体を見る目が養われ、流通側からの視点を学んだ。
毎月の予算は20日ごろに達成できた。すると、みんなさらに積極的になって拡販する。成功体験が人を成長させることも知った。
55年秋に東京支店東京東営業所所長としてアサヒに復帰したが、当時のアサヒは没落の一途。後に買い戻して現在の本社ビルを建てることになる吾妻橋工場(東京都墨田区)を売却したほか、56年に京都の医療法人十全会に株を買い占められるなど苦難が続いた。60年にはビールのシェアが9・6%と創業以来最低になり、後発のサントリーに抜かれる寸前にまで落ちた。
私は58年に飲料営業部に異動した。飲料は「三ツ矢サイダー」など有力ブランドがそろっているうえ、酒類と異なり販売規制がないため売りやすかった。スーパーの興隆期で、コンビニエンスストアの草創期だったことも幸いした。当時の飲料売上高は約300億円。3年間で100億円増やす計画だったが、8割方目標を達成した。
この時代にスーパーなど酒販店以外の新しい流通業態について、さまざまな知識を得られた。アサヒに復帰してからの5年間は苦しい時代が続いたが、精いっぱいに仕事をしていたためか、会社を辞めようなどとは思わなかった。
57年に住友銀行(現三井住友銀行)出身の村井勉さんが社長に就任。61年に同じ住銀出身の樋口廣太郎(ひろたろう)さん(現名誉顧問)が後を継いだ。その樋口社長の下で辛口の新しいタイプのビール「スーパードライ」を発売し、アサヒは大躍進する。スーパードライの発売は62年3月。前年秋から関東支店次長の職にあった私は、見本を持って卸会社を回り、確かな手応えを感じた。

