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【わが道わが友】テンプスタッフ社長・篠原欣子氏(3)
■業界団体旗揚げに参加、環境整備
昭和48年に起業したが、最初はなかなか派遣先がみつからなかった。夜は周囲の会社員に英会話を教えて日銭を稼いだ。ドアにかけてある「テンプスタッフ」の看板の裏側には英会話教室と書いてあり、夕方になると看板を裏返して早変わりした。
幸いなことに、外資系企業が日本に進出し始めたころだったので、英語が話せて英文タイプができる人材の需要が顕在化してきた。化学メーカーや金融大手の名だたる外資系企業などが顧客企業になり、英字紙のジャパンタイムズに小さな広告を出して集めたスタッフを派遣した。英文タイプは特殊技能だったが、応募者の口コミでスタッフも集まるようになった。
人材派遣というシステムは、外資系企業や海外と取引のある大手商社にしか知られていなかった。営業活動で企業を回って必死に説明しても、「分かった。おたくの会社は芸者の置き屋みたいなものだな」と言われる始末。労働省(現厚生労働省)に呼ばれて、「あなたのやっていることは職業安定法に違反している」との指摘も再三受けた。
当時は、米人材派遣大手のマンパワーがすでに日本に進出済みで、日本企業にもマン・フライデーがあった。同業者は次々と増えていき、政府もいつまでも反対していられなくなった。人材派遣業に関する法律を整備するために、労働省が研究会を設けて検討を始めた。
そこで、私のほかにマンパワー・ジャパンのA・F・J・フィナティー社長(当時)、マン・フライデーの竹内義信社長(現会長)ら8人で「八社会」を結成し、政府にいろいろと要請した。労働者派遣法が成立したのは61年。それに先立つ59年には、「八社会」をベースにビッグアビリティも加わり、業界団体の日本事務処理サービス協会(現日本人材派遣協会)が発足していた。
フィナティー氏はもう亡くなったが、ビッグアビリティの大原慶一社長とは協会の会合で今も時々お会いする。私も平成16年度から2年間、同協会の会長を務めた。
現在は、人材派遣健康保険組合理事長の任にある。派遣健保は14年の誕生だが、その3年前に準備室を作り、多様な働き方をする派遣スタッフの健保加入条件の整備や厚労省との折衝のため、初代理事長を務めたオリファ(現リクルートスタッフィング)の鮑啓東(ほうけいとう)元会長とともに奔走した。私は鮑さんの後を継いで2代目だ。
派遣健保が発足する前は、派遣スタッフは政府管掌健保に加入していた。派遣先が変更になるたびに、取得と資格喪失の手続きが必要になるなど仕組みが煩雑で、派遣スタッフが安心して働けるために健保組合設立は悲願だった。派遣健保は今や、加入者数約45万2000人と日本最大の健保組合になっている。

