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【わが道わが友】新生銀行社長ティエリー・ポルテ氏(3)思いがけず日本で仕事を
新生銀行を除けば、私の職歴はモルガン・スタンレーだけだ。金融業界には転職を重ねて経験を積む人が多い。だが私には、一つの企業に身を置いて、そこで成果を上げていく方が性に合っていたようだ。
ハーバード・ビジネススクール(HBS)を出てモルガンに再就職し、ニューヨークで投資銀行業務に従事していた1983(昭和58)年の2月、突然、東京に転勤を命じられた。急な欠員による異動だったのだが、正直、戸惑った。私はフランス系移民の2世で、転勤するとしても欧州のどこかだろうと思っていたし、HBSで学んだ以外、日本に関する知識はあまりなかったからだ。
東京の拠点はまだ駐在事務所で、スタッフはわずか25人。日本の金融市場も本格的には開放されていなかった。外国人も今ほど東京にはおらず、街中にはローマ字表示もほとんどない。一歩外に出ると「迷子になってしまうのではないか」という不安が常にあった。商談で外出する際は、訪問先と帰宅先を秘書に日本語でカードに書いてもらい、持ち歩いていた。それでも本当に迷子になり、通りかかった人に自宅まで連れて帰ってもらったこともある。
特にお世話になったのは当時モルガンでの先輩で、現在は民主党代議士の岩國哲人(てつんど)氏だ。海外経験が豊富で、日本のビジネス慣習、金融業界や企業の歴史も詳しく教えてもらった。仕事で会うべき人や、名刺の出し方や礼儀振る舞いまで教わった。一緒に夏の高校野球をテレビ観戦して、甲子園球場の伝統も教えてもらったのを覚えている。
日本語の学習も最初は努力した。だが東京のモルガンの上司からは「職務を優先するように」と言われていた。スタッフが少ないので、とにかく仕事をこなさなければならない。その際、日本語の力は必ずしも必要ではなかったのだ。何年もかけて日本語をマスターするより職務を優先した結果、私の日本語力はあまり進歩しなかった。ヒアリングはだいたいできるようになったのだが、話したり書いたりすることは苦手なままだ。
85年にはロンドンに転勤。東京と一転して200人の大所帯で、資本市場における債券発行に携わった。私の最大の仕事は91年、湾岸戦争のころの英国中央銀行(バンク・オブ・イングランド)の案件だ。
当時、英国中央銀行は、ユーロ導入前に流通していたECU(ヨーロッパ通貨単位)で資金調達を計画しており、どの金融機関が主幹事を取るかで争っていた。ナショナリズムの機運が強い欧州で、英国はフランスやドイツの金融機関をパートナーに選びにくい。そこで米系のモルガンが選ばれた。利率をフランス国債より0・04ポイント低くする破格の好条件で、25億ECUという巨額資金を調達、英国政府は大変、満足してくれた。

