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【わが道わが友】資生堂名誉会長・福原義春氏(3)
■身についた時代感覚を読む力
資生堂はかつて、本社を置く東京・銀座の人たちから「書生堂」とも呼ばれた。中卒の奉公で入った社員が、英語でも書道でも勉強したいというと金を出してくれたからだ。ある役員はエスペラント語を推奨していて、学んだ社員も多かった。
そんな社風の中、日本生産性本部(現社会経済生産性本部)が主催した、ミシガン州立大のウィリアム・レーザー教授によるマーケティング理論の集中講座を受講したが、あれほどありがたい講義はなかった。その後も教授との付き合いは続き、サイン入りの分厚い著書も送ってくれた。村田昭治・慶大名誉教授は、「ミシガン州立大で学んだ私にはこないのに」と。
誰も「マーケティング」という言葉など知らない時代で、自分が良いと思う製品を作れば、顧客は買ってくれると信じていた。だが、日本がだんだん物質的に豊かになり、人よりも良い品物を求めるようになっていた。顧客が良いと思う商品をこちらが作らなければならない。それがマーケティングだった。
市場調査のやり方は、米国の社会学者、ダニエル・ヤンケロヴィッチさんから学んだ。彼のライフスタイル調査を定期購読して、感心した。彼からは後に、資生堂が日本で最初の購読企業だったと教えられた。
昭和36年に「キャンディトーン」、翌年に「シャーベットトーン」という、初の大々的キャンペーンを仕掛けるのにひと役買った。メーキャップで外資に立ち遅れていた資生堂にとり、あのキャンペーンがなければ、マックスファクターやレブロンなど外資系メーカーの後塵(こうじん)を拝したままだった。見よう見まねで彼らのやっていたことを日本的に展開し、結果、口紅でトップシェアをとった。
社運をかけた挑戦を私に決意させたのは、稲村耕雄(やすお)・東工大教授だった。稲村先生は、ミカン畑を通る湘南電車を緑色とオレンジにデザインするなどして成功した。先生が率いる日本色彩学会と研究を重ねる中で、「これからはパステルトーンだね」と言われ、ピンときたのだ。
当時も今も、勉強熱心な人は大勢いる。ただ私は、人が気づかなかったような所にいち早く飛びついていたかもしれない。それは、学生時代から写真の仕事などで光文社や岩波書店などの編集者と付き合う中で、ジャーナリスティックな視点を持てたからかと思うこともある。
62年7月、急逝した大野良雄社長の後を継ぎ、副社長になってわずか5カ月の私が第10代社長になることが決まった。就任会見で、「みんなで沖で泳いでいたら、突然大波が来て私1人が砂浜に打ち上げられたような気持ちだ」と率直に感想を語った。人々の気持ちが石原裕次郎の死や、夏の湘南海岸に向いていたころだ。記者たちはこの言葉を紙面で一斉に取り上げた。

