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【わが道わが友】資生堂名誉会長・福原義春氏(2)
■ダビンチに衝撃、写真に熱中
昭和6年、俳人でもある水原秋桜子が院長だった東京・神田の水原産院で産湯をつかった。祖父の有信は徳川幕府医学所でオランダ薬学を学び、後に銀座で日本初の洋風調剤薬局「資生堂」を開業した。本籍は銀座で、住まいは山の手の荏原(えばら)郡大崎町(現品川区上大崎)と、昔の小説の主人公さながらの生い立ちとなった。
絵描きを志していた伯父の信三は、祖父に「絵は趣味でもできる」と諭され、初代の資生堂社長を務めた。父の信義は末っ子で、文学青年。胸を悪くし、療養生活ののち資生堂の会計課などを経て会長にもなったが、人柄に支えられた趣味人だった。
慶応義塾の幼稚舎(小学校)に学び、6年間を通じて担任となった吉田小五郎先生は私の生涯の恩師となった。専門は日本切支丹(きりしたん)宗門史。本来なら大学で講義すべきなのに、子供好きで一生を幼稚舎に奉職した。
小学6年生の時、クラスの美術館見学で衝撃を受けた。中止になった東京五輪の代替として上野池之端産業館で開催された「レオナルド・ダヴィンチ展」だ。揚水機やヘリコプターの発明から彫刻、絵画まで、1人の人間が多様なことを手がけている。クラスの40人中、大きな影響を受けたのは、たぶん私1人。吉田先生も、私の父も同じタイプの人間だった。2人に波長を埋め込まれたのだろう。
好きだった植物学や、当時はまだ注目されていなかった遺伝学を地道に一生やりたいと思ったが、受験せずに入れる慶応には該当学科がなく、家族の薦めもあり経済学部に進んだ。しかし当時の経済学のカリキュラムにはなじめず、カメラクラブに活動の場を得た。OBの三木淳、長野重一、船山克、狩野優、芳賀日出男など、そうそうたる写真家が立ち代わり来て指導してくれた。
ただ、彼らの専門は報道写真。私のやりたかった動植物や自然現象の写真は文字通り独学だった。そのうち誠文堂新光社の「子供の科学」編集長、田村栄さんの所に出入りするようになり、理科の教科書の編集会議にも出るようになった。
大学4年の年、資生堂の第1回大卒定期採用試験が実施された。福原家には男の子が私だけ。当時、「いつ不渡りを出すか」と新聞に書かれていた資生堂の試験を受けると言ったら、大学の就職部長に「気の毒に」と同情された。伯父が祖父に言われたように、趣味は日曜にやればよい。週末を使って光文社のカッパブックスの表紙を撮ったり、平凡社の雑草の本などの写真を撮影したりした。
もちろんダビンチにはなれないが、あの衝撃が私の原点。親は小学生ぐらいの子供を、もっと博物館や美術館に連れていってはどうか。何らかの影響を残すはずだ。

