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【わが道わが友】石油資源開発社長・棚橋祐治氏(2)
■福田赳夫首相退陣につらい思い
昭和51年暮れに福田赳夫内閣が誕生し、私は通産省(現経済産業省)出身の首相秘書官に登用された。他省庁出身の秘書官は、外務省が後の事務次官で皇太子妃雅子殿下の父である小和田恆(ひさし)さん、大蔵省(現財務省)がやはり事務次官になられた保田博さん、警察庁が元関東管区警察局長の高田朗雄さん。それに今の首相、康夫さんが政務秘書官としてご一緒だった。
当時の官邸は狭い部屋に5人の秘書官と事務員らがコの字型に机を並べていて、福田さんはそこを出入りする度に「よう、よう」と声をかけておられた。高度成長から安定成長に入る時代。福田さんは戦後初の赤字国債発行を決断されたが、私にとっての秘書官時代は長い“貿易摩擦人生”の幕開けだった。
当時、日本人は誰もがアメリカ人並みの生活をしたいと考えていた。冷蔵庫や洗濯機を備えて家庭での女性の労働を軽減し、家族でテレビを楽しむ。そんな生活にあこがれて、「ものづくり」に邁進(まいしん)した。
日本人のものづくりの資質は大変なもので、国が方針を決めると国民が呼応し、中小企業の力も強かった。米国で生産されるものよりも、故障しない、レベルの高いカラーテレビがあっという間にできあがった。このため、輸出が増え、米国が自制を求めてきた。
福田さんはこの問題に頭を痛められ、52年3月に訪米された。衆院議員に当選間もないころの小泉純一郎元首相らが随行、森喜朗元首相が官房副長官として首相不在の官邸を守られた。2人は当時から福田さんに大事にされ、「助さん、格さん」という感じだった。
ワシントンの迎賓館で行われたカーター米大統領(当時)との首脳会談に、日本側は輸出自主規制枠240万台という数字を用意して臨んだ。対する米国側の要求は130万台。ところが、カーターさんは日米の数字を取り違え、「240万台」と主張した。福田さんは大統領の面目を考えて、控室にいったん持ち帰られた。ただ、大統領の発言は重い。休憩時間のうちに福田さんがカーターさんに電話で指摘され、大変恐縮されたという珍事があった。結局、自主規制は170万台で折り合ったが、米テレビメーカーはその後も盛り返すことはなかった。
53年11月の自民党総裁選予備選当日、福田さんが退陣を決断されたときは胸を締め付けられる思いがした。前日まで「圧倒的に優勢」とされていたのに、結果は敗北。福田さんが会見で言われた「天の声にも、ときには変な声もあるよな」という言葉を、真後ろに控えていた私は、とてもつらい思いで聞いた。その潔い出処進退の様子は今でもまぶたに焼き付いており、康夫さんが首相になられたときは、特別な感慨を抱いた。

