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【わが道わが友】三菱商事特別顧問・諸橋晋六氏(2)
■「商社冬の時代」に社長就任
ロンドン駐在時の昭和42年5月、石油メジャー(国際石油資本)のブリティッシュ・ペトロリアム(BP)と共同で、原油とタンカーによる総額200億円の「コンビネーションディール」と呼ばれる案件を手がけた。これはフィナンシャル・タイムズの1面を飾った。日本企業のニュースでは、おそらく初めてのことだったろうと思う。
「日本に原油を売りたい」というBPからのアプローチが発端。当時、BPの原油は他の石油会社より1バレル当たり2、3セント高く、日本は輸入していなかった。だが「3年間で200万トン買ってくれれば、20万トン級タンカーを2隻発注する」という。当時、20万トン級のタンカーは世界最大級で、まさに夢のような話。割高な原油は当時の三菱石油(現・新日本石油)に相場価格で売り、三菱重工業が建造するタンカーの売り上げで利益を捻出(ねんしゅつ)する契約がまとまった。
コンビネーションディールはその後、何回も繰り返され、BPから連続受注したタンカーは最終的に15隻にのぼった。この商談は総合商社の機能を最も良く発揮したものとして、ロンドン勤務の良い思い出になった。
その後、マニラへの転勤を経て、51年5月に東京本社の船舶部長に就任。それからの2、3年は会社人生で最も辛い時期となった。海運市況は「10年に1度の波がある」というが、第1次石油危機後の世界的な総需要の縮小と円高による輸出不振で、大不況に見舞われたのだ。
中小の造船所が10以上倒産。三菱商事がタンカーや貨物船を引き取ったが、売ることもできない。やむなく自主運航したものの赤字。社内でも肩身が狭く、「大損を出しているのに会社のエレベーターなんかに乗るな」と冗談交じりに言われたこともあった。「負けるものか」と歯を食いしばった。
逆境は役員になってからも始終あった。副社長になった60年前後は、第2次石油危機の余波や急激な円高、原油価格の下落で会社全体の業績が低迷。「商社冬の時代」ともいわれた。三菱商事は61年11月に抜本的なリストラ計画「Kプラン」を発表するが、その5日後に近藤健男社長が急逝。心から信頼し合い、長年、ともに仕事をしてきた「近(こん)ちゃん」との急な別れを悲しむ間もなく、3日後、私の社長就任が決まった。「近ちゃんと一緒に作ったKプランは自分が絶対に成功させてみせる」。そんな悲壮感があった。
収益重視の経営、事業分野の選択と集中、経営情報の共有化など、とにかく必死だった。Kプランを完成すべく、社長を務めた5年7カ月で66の具体策を実行した。業績も拡大したが、バブルのさなかでその後遺症も残った。この処理を後任の槙原(稔・現相談役)君に託すことになったが、よくぞ資産の優良化を進めてくれたと思う。