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【わが道わが友】三菱商事特別顧問・諸橋晋六氏(1)
■船舶輸出で日本の復興担う
「三菱の社長」というと「一流大学卒の優等生」といったイメージを持つ人もいるだろう。だが、私は暴れん坊のサッカー選手だった。いわゆる文学少年でもあり、作文は得意だったが、(旧制)中学4年でサッカー部の正選手になると、ますます勉強はそっちのけ。川端康成の『浅草紅團』を読んでオペラ館に行ったり、新宿のムーラン・ルージュや築地小劇場の芝居を見たりしていた。この体験が社長時代、企業メセナの走りになった東京・天王洲の劇場「アートスフィア」(当時)創設につながりはしたが。
浪人して上智大学に進んだが、翌年の昭和18年12月には学徒兵として召集された。陸軍では入隊した日から全員が殴られた。予想しないことが起こるのが軍隊である。でも、無益な経験ではなかった。常に「何か起きるはずだ」という意識を持ち、あわてずに事態を見極める姿勢は後々、商社に入ってから役立った。三菱商事で学徒動員と戦後の財閥解体を経験した人間は、いまや私一人になってしまった。
終戦で上智に復学。明るい民主主義の風潮が広がる時代で、私は大学新聞を創刊した。就職でも新聞記者を志望したが、採用がほとんどなく、志望を商社に変えた。子供の時から「いずれは海外へ」との夢を持っていたからだ。
22年に三菱商事に入社し、進駐軍業務の窓口だった渉外部に配属された。下手でも英語で仕事ができるのはうれしかった。だが3カ月後の7月、GHQ(連合国軍総司令部)による財閥解体で、三菱商事は約140の会社に分散させられた。私は太平商工という小さな会社に移り、2年近く進駐軍の残務整理に追われた。
26年のサンフランシスコ講和条約締結でGHQの方針も変わり、三菱商事は29年に大合同。私は船舶課に配属された。日本の復興に最も貢献した船舶輸出を担当する部署で、外貨獲得の花形だった。第二次世界大戦で世界の商船のほとんどが沈み、世界的に船舶が不足していたが、日本には戦艦「武蔵」を建造した三菱重工業の長崎造船所をはじめ、多くの造船所が戦火を免れ、優れた造船技師も残っていた。
船舶の仕事で学んだのは「オール・オア・ナッシング」。注文を取れば大きいが、不調ならゼロ。喜びも悲しみもあったが、仲間と励まし合って生き抜いた良い体験だった。焼け野原から立ち上がり、船舶ビジネスを通じて日本の復興に役立つ仕事に携われたことは、いま考えても明るく楽しい思い出である。
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【プロフィル】諸橋晋六
もろはし・しんろく 大正11年7月、東京生まれ。上智大経卒。昭和22年、三菱商事入社。61年、社長、平成4年、会長、10年、相談役を経て、16年4月から現職。

