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【わが道わが友】バンダイナムコホールディングス最高顧問・中村雅哉氏(3) (1/2ページ)
■悲願の「家庭用」 ソニー協力を決断
昭和50年代半ばから、ナムコは「パックマン」を始めとする業務用テレビゲーム機の投入で、再び急成長を始めた。ゲーム機を設置したアミューズメント(AM)施設を全国展開し、喫茶店などへのゲーム機設置も推進。テレビゲームがナムコの新たな経営の柱になった。
この流れをより強めるきっかけとなったのが、58年に任天堂が発売した家庭用テレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」だ。ファミコンの投入を計画していた任天堂は、ゲームソフトの調達に奔走。私も、京都から上京してきた同社の社長(当時)、山内溥(ひろし)さんと東京駅前の日本工業倶楽部で面会し、ソフトの供給を要請された。
そこで、業務用ゲーム機で人気のあった「パックマン」や「ゼビウス」といったソフトをファミコン向けに供給することになったのだが、ナムコは、任天堂の家庭用テレビゲーム機事業の発展に大きく貢献したと自負している。
ファミコン向けゲームソフト事業も加わったナムコの成長は一段と加速する。63年に、AM業界の先陣を切って東証2部に株式を上場。平成3年には同1部への指定替えを果たした。
AM業界の社会的認知度の向上やイメージアップに意識して努力したのもこのころからだ。なにしろ、当時は業界の評判があまり芳しくなく、新入社員の親御さんに「大学まで出したのにゲーム会社に入るなんて…」と泣かれた、などという話もよくあったほどだ。
そのころナムコは、業務用ゲーム機の世界で培った高度なコンピューターグラフィックス(CG)技術を生かして家庭用テレビゲーム機を自社開発し、同市場に参入する構想を温めていた。立体CGを使ったゲームソフトでは、業務用ゲーム機のライバルであるセガエンタープライゼス(現・セガ)とともに、世界の最先端技術を誇っていただけに、家庭用市場への参入は悲願だった。実際に、業務用ゲーム機をベースにしてプロトタイプまで作った。

