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【土・日曜日に書く】論説委員・石川水穂 国民の安寧を祈られる天皇
◆年間30件近い宮中祭祀
2日の新年一般参賀で、天皇陛下はご一家とともに元気な姿をお見せになった。暮れに体調を崩されたが、いつもと変わりないご様子だった。陛下のご健康は国民の等しく願うところだ。無理をされないよう、ご公務の負担を軽減する体制づくりが求められる。
陛下にとって新年は極めて多忙な時期だ。講書始(こうしょはじめ)の儀、歌会始(うたかいはじめ)の儀など恒例のご公務のほか、四方拝(しほうはい)(1日)、元始祭(げんしさい)(3日)、奏事始(そうじはじめ)(4日)、昭和天皇祭(7日)と宮中祭祀(さいし)が続く。四方拝は元日の早朝、陛下が神嘉殿(しんかでん)南庭で伊勢神宮、山陵(さんりょう)、四方の神々を遙拝(ようはい)される年中最初の行事である。今年はご健康に配慮され、場所を御所前の庭に変更し、モーニング姿で執り行われた。
こうした宮中祭祀が主なものだけで年間30件近くある。その中で最も重要な行事は11月23日夕から24日未明にかけて行われる新嘗祭(にいなめさい)だ。天皇が新穀を神々に供え、神恩に感謝した後、自らもお召し上がりになる祭典である。照明器具はなく、所々にかがり火がたかれているだけだ。
大臣ら政府要人は幄舎(あくしゃ)での参列を許されているが、天皇のお姿を見ることはできない。この新嘗祭に内閣官房副長官として参列した下村博文氏は「凍りつくような霊的なエネルギーの強さ」を感じたと、中西輝政氏らとの共著「日本人として知っておきたい皇室のこと」(PHP)に書いている。
◆ご意思による慰霊の旅
今年は天皇ご即位20年の年にあたる。この20年間、陛下はひたすら国家国民のために祈り続けてこられたように思われる。
雲仙普賢岳噴火(平成3年)、北海道南西沖地震(5年)、阪神淡路大震災(7年)、新潟県中越地震(16年)と大災害のたびに、皇后陛下とともに現地に赴かれた。両陛下は被災者の前にひざまずき、「希望を失わず、生き抜いてください」などと励まされた。
また、戦後50年にあたる平成7年夏、原爆投下された広島・長崎、悲劇的な地上戦が行われた沖縄、大空襲に見舞われた東京の4カ所で、戦没者を慰霊された。戦後60年の17年には、激戦の地、サイパン島を訪れ、多くの在留邦人が命を絶った「バンザイクリフ」などで、皇后さまとともに深々と頭を下げられた。
これらの被災地慰問や戦没者慰霊は、いずれも陛下の強いご意思によるものだった。必ずしもそうでないケースもあった。
陛下は天安門事件から3年後の平成4年10月、中国を訪問され、「我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」とのお言葉を述べられた。
天安門事件は、北京で民主化を要求する学生らに対し、中国政府が軍隊を出動させて弾圧した事件である。少なくとも数百人の死者が出たといわれ、西側諸国から厳しく批判された。
天皇ご訪中はそのような時期に行われた。当時の宮沢喜一内閣が国民の反対を押し切って、強引に推し進めたものだった。
当時、中国の外相だった銭其●氏は後に、回顧録「外交十記」でこう書いている。
「天皇の訪中は中日関係を新しいレベルに引き上げた。この時期に訪中したことは、西側による対中制裁の打破に積極的効果があり、その意義は明らかに中日二国間関係の範囲を超えていた」
日本の皇室が外交に政治利用されたことを物語っている。
◆国民の結束を願われる
天皇ご在位20年の間には、そうした負の歴史もあったが、全体として、日本が自立への道を着実に歩んだように思われる。
その一つは、PKO協力法(平成4年)やテロ特措法(13年)、イラク特措法(15年)などによる自衛隊の国際貢献である。愛国心と日本の伝統文化を重視する改正教育基本法(18年)と憲法改正に向けた国民投票法(19年)も成立し、戦後体制からの脱却に向けて大きな一歩を踏み出した。
他方、日本経済は平成に入ってバブル崩壊に見舞われ、いったん立ち直ったものの、昨年、世界的な金融危機が日本にも押し寄せ、未曾有(みぞう)の困難に直面している。
昨年12月23日、75歳の誕生日を迎えられた陛下は大事をとって記者会見をとりやめ、代わりにご感想を文書で発表された。
「働きたい人々が働く機会を持ち得ないという事態に心が痛みます」「これまで様々な苦難を克服してきた国民の英知を結集し、また、互いに絆(きずな)を大切にして助け合うことにより、皆で、この度の困難を乗り越えることを切に願っています」
陛下が願われるように、国民が力を合わせることが何よりも大切である。
(いしかわ みずほ)
●=深のさんずいを王に