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【書評倶楽部】古美術鑑定家、エッセイスト・中島誠之助 (1/2ページ)
■武士道に殉じた姿を称賛
□『浦賀与力 中島三郎助伝』
函館市の市街地に中島町という一郭がある。郵便番号では040−0014で表示されている。この町名が最後の武士と称(たた)えられ多くの人々に感銘を与えた函館戦争の勇者、中島三郎助を記念して命名されたことを知る人は少ない。
この人は三浦半島で、浦賀奉行与力の子として文政4(1821)年に生まれている。与力という役職は徳川幕府の機構のなかでは最も身分の低い幕臣である。
その人が徳川家に最後まで尽くした忠節の武士として、明治政府の元勲たちに「幕臣中島三郎助、函館戦争で戦死忠勇比類なし」と言わしめ、その武士道に殉じた姿を称賛されているのだ。
アメリカのペリー艦隊が浦賀の沖へ来航したのは嘉永6(1853)年で三郎助33歳のときになる。旗艦サスクエハナ号に真っ先に乗り付けて交渉に当たったのは月番の応接係だったこの人である。
そして三郎助は激動する幕末期に幕府海軍創設の最前線に身をおき、軍艦の建造から防衛のための台場造成と大砲の鋳造などすべてにおいて関(かか)わっているのだ。
幕府の異国船対応と海軍伝習所の開設、王政復古と薩長勢力の台頭など激動の時代をよそにして、三郎助は忠実な能吏として淡々と己の職務を果たしていく。
やがて来る幕府の瓦解。海軍副総裁、榎本武揚は軍艦の新政府軍への引き渡しを拒み函館行きを決行する。幕臣であり徳川家に恩顧を受けた三郎助は2児と共に乗船して江戸を後にする。
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