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【書評】『文学的なジャーナル』岡崎祥久著
■「虚構」なのか、「自伝」なのか
芥川賞候補にも幾度か名前を挙げられ、「フリーター文学」の元祖と一部では呼ばれている実力派作家による、一風変わった長編小説である。
しかしこれは「小説」なのだろうか。「まえがき」で作者は、この「ジャーナル」が、1984年以来、ありあわせの大小さまざまな紙片に日常生活を書き散らしてきた膨大なメモをもとにして、自らの「過去」を再構成しようとした試みであると述べている。そして始まるのは、時間を行きつ戻りつしながら、なんでもない「一日」をパッチワークするようにして物語られてゆく「私」の半生である。それは「岡崎祥久」の経歴に限りなく重なっていて、それゆえこれは一種の「自伝」であると受け取れるのだが…。
だがこうした設定をそのまま鵜呑(うの)みにしてはいけない。たとえばヒロインの「西瓜子」と「私」との関係は、その時々でかなり大きく変化しており、読み進めながら次第に、これはひょっとすると一人の女性のことではないのではないか、という疑いが頭をもたげてくる。そう考え出すと途端に、この「私」が「メモ」を頼りに記していく「人生」が、繊細で微妙な想(おも)いを映し取るリアリティーはそのままに、一挙に不思議な作り物のように思えてくるのだ。実はすべてが「虚構」なのではないか。だがその線引きはどこまでも判然としない。作者の仕掛けは極めて巧緻(こうち)である。
だが、刺激的な小説的企(たくら)みとともに、われわれの実際の人生も、そもそもこんな曖昧(あいまい)で、謎に満ちた、だからこそかけがえのないものなのではないか、ということも作者は言わんとしているように思える。そしてそれは確かにそうなのだ。過ぎた時間の何もかもを描くためには、それと同じ時間が必要だろう。覚えていられることには限りがあり、記憶が時にあやまちを犯すこともあるからこそ、「過去」は貴重なのである。そんな真理をさりげなく教えてくれる、これは実に「文学的」な「ジャーナル」である。(草思社・1890円)
評・佐々木敦(批評家)
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【プロフィル】岡崎祥久
おかざき・よしひさ 昭和43年、東京生まれ。著書に『南へ下る道』『ctの深い川の町』など。

