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【読む、観る(4)】12編それぞれに自分を見る『ツバメ記念日』ほか (2/5ページ)
このニュースのトピックス:文学・書籍
■大書評(1) 評・あさのあつこ(作家)
重松清著『ツバメ記念日』(文芸春秋・1470円)
春から初夏にかけての12編。12の物語。いや12人の人間がここにいる。
重松清の作品を読んでいると、いつもそうなのだ。物語の筋とか、テーマの軽重とか、文体とか構成の妙とか、小賢(ざか)しい解説や評価を超えて、コツンと人が落ちてくる。ごく普通の、英雄でも偉人でもない、ときに狡猾(こうかつ)で、ときに優柔不断で、ときに手前勝手な人間が一人、読み手の心に落ちてくる。そして、読み終わるころ、それが自分自身だったと気がつくのだ。
少なくとも、わたしはそうだった。本を閉じ、思う。これは、わたしだ。
この本に刻まれた12人の人間たち。男も女もいる。息子も父もいる。娘もいる。中学生も高校生も44歳のフリーライターもいる。みんな、わたしだと、やはり思った。
古い雛(ひな)人形を捨てきれない幸子も(「めぐりびな」)、故郷を後にして東京へと向かうカズユキも、息子のスポーツバッグにそっとポンカンを忍ばせた母親も(「拝復、ポンカンにて」−この一編、大好きだ。日本語で書かれた短編の中で、これほど上質のユーモアと少しも湿らぬまま情愛を語る理性を兼ね備えた作品が他にあるだろうか)、仕事と子どもの間で揺れながら精いっぱいがんばる由紀のママも(「ツバメ記念日」)、みんなわたしなんだ。
性別も年齢もまちまちの人々が織り成す12編。舞台も年代も違う。共通項は何もない、いや、強いてあげれば、登場する人々がみな、ささやかな日常を生きていることだろうか。その日常がわたしに繋(つな)がっている。実感できる。その実感が痛い。自分の気づかなかった自分の一面を見せられる痛みだ。自分の弱さ、脆(もろ)さを突きつけられる。