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【週末読む、観る】◇文芸時評3月号◇冗長さが現在の「文学」 (1/2ページ)
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現在の文学研究は「文学とは何か」という問いはすでに破産していると考えている。遠くロシア・フォルマリズムが「文学性」という本質が「文学」にはあると信じて、失敗して以来だ。ところが、現在はこういう愚直な問いが必要な時期らしい。ライトノベル、コバルトシリーズ、ケータイ小説。これらが「文学」であるかないかを問わなければ、「文学」の輪郭が溶けてしまいそうな雰囲気がある。
桜庭一樹『私の男』(文芸春秋)が直木賞を受賞した。父親とのインセスト(近親相姦)を書いた小説だ。ある編集者からある書店の「カリスマ店員」が「コバルトの方がもっと上手(うま)い」と言っていたと伝え聞いた。直木賞の選考委員がコバルトシリーズを読んでいないことは確実だろうから、痛いところをついている。しかし、それでも『私の男』の方により多く「文学」を感じるとすれば、それはむしろその冗長さにあるように思う。たった一つのテーマを長々と書く、テーマもないのに長々と書く。それが、現在の「文学」ではないだろうか。
芥川賞を受賞した川上未映子『乳と卵』について、山田詠美は「饒舌(じょうぜつ)に語りながら無駄口は叩(たた)いていない」(文芸春秋)と秀逸な選評を書いた。一方、受賞を逃した山崎ナオコーラ『カツラ美容室別室』は「『スカスカで何もない』という批判」が多かったと言う(村上龍の選評による)。しかし、先の「文学」の定義に従えば、どちらも「文学」だと言える。いま私たちに許されているのは「これはたしかに『文学』である」という言い方だけであって、「これは『文学』ではない」という言い方ではない。この2編の小説は冗長さにおいて「たしかに『文学』である」。