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【青雲の大和】(104)最後の誠意 (1/2ページ)
入鹿(いるか)は孤立しつつある。だれにそれがわからなくとも、鎌足(かまたり)にはわかる。
たとえば、巨勢徳太(こせのとこだ)である。冠位第二位、小徳(しょうとく)の位にある蘇我系の大物だが、入鹿に命じられ山背大兄(やましろのおおえ)と聖徳太子一族の住まう斑鳩(いかるが)の宮を焼き討ちしたあとは、あまりにも強引な入鹿のやり方に嫌気がさしたのか、蘇我本家に距離をおくようになっていた。
そこを鎌足はねらった。むろん自身が動くのは危険でありすぎる。で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)との婚姻が成ったばかりの蘇我の分家、山田麻呂(やまだのまろ)を動かしてはたらきかけると、かんたんに落ちた。
三韓進調(しんちょう)の日の決起については明かしていないが、
−−ことあらば、中大兄と山田の臣(おみ)につく。
と、巨勢徳太から言質をえている。
もう一人、大物が手にはいった。
阿倍内麻呂(あべのうちまろ)である。かつて大臣(おおおみ)、蘇我馬子(うまこ)が絶対的権力をにぎっていたころに馬子の側近として売りだし、ついで蝦夷(えみし)の時代になると、大夫(まえつきみ)とよばれる重臣のうち筆頭の地位を占めるようになっていた。
しかし、これも独裁的な手法を好む入鹿とは合わず、離れていこうとしていたやさきに鎌足が動いた。
この男をとりこんだのは、中大兄皇子の叔父(母の弟)、軽皇子(かるのみこ)である。
軽皇子は鎌足が中大兄よりもさきに、主君に担ごうとした皇族である。結局、鎌足のほうが、このかたの能力をみかぎったかたちになったが、軽皇子はそうとは知らず、あいかわらず鎌足を頼っている。
しかも好都合なことに、軽皇子の愛妃小足媛(おたらしひめ)は阿倍内麻呂の娘である。そこで軽皇子を説いて、阿倍内麻呂を蘇我勢からひきはなし反蘇我側にとりこむ役をひきうけてもらったのである。