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【青雲の大和】(47)闘士帰る (1/2ページ)
勅命により高句麗(こうくり)に赴(おもむ)いていた津守大海(つもりのおおあま)が、旻師(みんし)の学堂から招きをうけたのは、皇居での帰朝報告を終えた翌日だった。
なんだろう、と津守は思った。旻師とは面識はあるが、個人的に話をしたことはない。
相手は唐帰りの著名な学僧であり、当代最高の知識人である。その学堂から、いま権力の頂点にいる蘇我入鹿(そがのいるか)をはじめ、中臣鎌足(なかとみのかまたり)ら、そうそうたる若手の実力者が育っている。
いっぽう津守はといえば、崇拝していた斑鳩(いかるが)の太子(聖徳太子)が薨(こう)じてからの十数年間、蘇我勢の監視の眼をさけ、じっと身を伏せるようにして鳴りをひそめていた。反蘇我の烙印(らくいん)が消えるのを辛抱づよく待ったのである。
そして、いまの大君(皇極(こうぎょく)天皇)の時代になってはじめて、三韓外交で活躍してきた一族の過去の実績によって津守自身が登用され、高句麗へ派遣されたのだった。
旻師の学堂からよびだしをうけたのは、その真意はいかにあれ、最新の高句麗情勢を知るためであるのはまちがいない。その情報は、あるいは旻師の一番弟子であった入鹿のもとへ流されるのかもしれなかった。
いずれにしても、旻師に接近しておくことは、自分の立場をつよめるうえで損はない。そう考えて、津守は指定された時刻に飛鳥の旻師の学堂にでむいていった。
おどろいたことに、津守を待っていたのは旻師一人ではなかった。
元留学生の俊才である高名な高向玄理(たかむこのくろまろ)が、旻師のよこにひかえていた。このひとも太子にみいだされて隋に派遣された一人で、じつに三十二年間も研鑽(けんさん)をつんで帰ってきている。
もう一人は南淵請安(みなぶちのしょうあん)である。津守は初対面だが、「請安先生」の名は、いかにも大物らしいゆったりとした体躯(たいく)とともに飛鳥の京域に知れわたっていた。