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【青雲の大和】(44)槻の広場で (1/2ページ)
「いえ、あの皇子(みこ)にかぎって、お一人でみえることはまずありません」
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の人となりを知るため、鎌足(かまたり)が問いかけると、子麻呂(こまろ)は笑みをうかべて、そう答えた。
「どういうことだ」
「いつも、とりまきのお仲間とごいっしょで、それはもう明るくて、はなやかなものでございます」
十代の青年たちのはじけるような笑い声が、きこえてくるようである。
「そうか、そういう方か」
鎌足は考えこんだ。
皇子の英邁(えいまい)な素質をうかがわせる情報が、宮廷の筋から流れてきている一方で、ちょっとあてがはずれたような、陽気であけすけな話である。しかし、どちらが皇子の実像なのかは、詮索(せんさく)する必要はないように思った。
皆にとりまかれ、やがては主君として担がれていくのであれば、よくいえばそれこそが英主たる証(あか)しではないのか。
たとえば、あの聖徳太子はどうであったか。常人とはあまりにもかけはなれた英才であり、超人的な頭脳のもちぬしであったがゆえに、皆があつまって陽気に押しあげていくといったことは決してなかったときいている。したがって、あの時代の改革はすべて太子の頭脳からでたものであって、地に根づかないまま未完に終わったのではないか。
太子のご子息、山背大兄(やましろのおおえ)については、比較しようもない方であった。仲間が神輿(みこし)で担ぎあげるといった陽性の人ではなく、なぜかつねにまわりから孤立していくのである。
入鹿(いるか)が襲撃を指令したとき、だれ一人たすけようとしなかったのは、蘇我の権勢を恐れたこともあるが、他方では山背大兄のこの性格がわざわいしたといえなくもない。
鎌足が当初、主君に立てたいとねがった軽皇子(かるのみこ)にも、同様の傾向があった。大君のじつの弟であるのに、軽皇子のまわりにはいまだ、だれもつきしたがう者がいないというのは不思議なほどである。