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【わたしの失敗】児童文学作家・那須正幹さん(65)(2)
■最初の合評会でピシャリ
大学を卒業して東京の商事会社に就職したときは、将来自分が作家になるなどとは夢にも思っていなかった。自動車販売部門のセールスマンとして、新車の販売業務についていたが、「ショールームにある車を出し入れするときに、ようぶつけて」2年間の在任期間中に「始末書を8枚くらいは書いたかな」と笑う。
「課長に、なんなら始末書の用紙をコピーしましょうかといわれた」ほどの常習犯だった。
営業所は北砂町の「当時は辺りにどぶ川が流れていて町工場ばかり建ってるところにあって、昼にパンと牛乳を持って、荒川の土手で食べながら5年後、10年後の自分を想像してみてもぜんぜんイメージがわかなかった」と振り返る。
仕事への不満というよりも「何となく将来同じことをこのままやりおるのかなあいう」漠然とした不安が徐々に大きくなって、入社2年後の配置転換のとき、「本人の承諾なしに勝手に異動を決めるような会社はやめちゃる」(?)と、ごねて辞表をたたきつけたのだという。25歳だった。
郷里の広島に帰り、父親が経営していた書道塾の手伝いを始めたが、書道の経験は皆無だった。
「このままじゃオヤジ死んでも塾の跡は継げんなあ、何かほかに商売みつけにゃいけんなあ思っとったところに」、姉の竹田まゆみ(児童文学作家)が参加していた児童文学の同人誌「子どもの家」に誘われて入った。
児童文学には興味も関心もなく「言葉すら知らんかった」那須だったが、同人になったからにはなにか書かなければならない。
それで「こっちのイメージとしては、動物や王子様やお姫様が出てくるものならいいやろ思い、モグラがヒバリになる短編を書いて」最初の合評会に臨んだ。「みんなの前で読んだらシーンとなっとるから、いいのかな思ったら」、同人のひとりの女性にピシャリと通俗性を指摘される。
「竹田さんの弟さん、この会は新しい児童文学を書く会なのよ」
一念発起した那須は、3年後の30歳になるまでに、必ず本を出してやろうと決心したのだった。
=敬称略
(宝田茂樹)

