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知ってた?横浜の陶磁器「ハマヤキ」 故郷に錦 (1/2ページ)
■緻密で高い技術/装飾過多で悪趣味〜分かれる評価
古くから外国貿易の窓口として日本文化を伝え、海外の文化をいちはやく発信してきた異国文化あふれる横浜。横浜で輸出用に作られ、「ハマヤキ」や「横浜焼」と呼ばれた陶磁器があったことはほとんど知られていない。そんな横浜の意外な一面を探る展覧会「ハマヤキ故郷へ帰る」が、横浜市中区南仲通の神奈川県立歴史博物館で開かれている。陶磁器の産地ではない横浜で、なぜ焼きものがあったのか。(渋沢和彦)
≪土産物として珍重≫
「ハマヤキは絵付けはみな手作業。絵も精巧で緻密(ちみつ)。当時の職人の技術の高さには驚かされます」
こう話すのは展覧会の担当学芸員の佐々木登美子さん。明治20年代には、70を超える絵付け工房を備えた陶磁器商が店を構え、関係者は600人にも及んだという。当時の横浜はまさに焼きものの町だった。
横浜では、真葛(まくず)焼で知られる陶工、宮川香山(こうざん)が明治4年にこの地に窯を築いて活躍するなど、すでに焼きものの工房は存在していた。しかし、ハマヤキはこうした陶磁器とは一線を画し、生糸や茶などの積み出し港として栄えた横浜の地の利を生かし、西洋人に好まれた陶磁器を生産、輸出していたのである。
しかし、本来の焼きもの産地と違い、土が陶磁器に適していたわけではなかった。そのため、瀬戸や九谷など各地の有名産地で作られた素地(きじ)を取り寄せ、絵付けと焼成を施して、「ハマヤキ」として売った。
職人たちは陶芸の産地などから集まってきた。なかには200人もの職人をかかえる工房もあったほどで、外国商館から注文があると、要望に沿った図柄を施したという。
「図柄は花鳥風月が圧倒的に多く、人物なども描かれ、外国人からは土産物として珍重されました」
ところが大正時代になって衰退が始まった。第一次大戦の影響で注文が激減。さらに関東大震災で壊滅的な打撃を受け、多くの業者が廃業に追い込まれ、ハマヤキの名はほとんど忘れられてしまった。