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【土・日曜日に書く】論説副委員長・渡部裕明 纒向遺跡と国家誕生の息吹
≪宮殿群が見つかった≫
「卑弥呼の宮殿跡を発見」「邪馬台国大和説が有力に」…。
11日の各紙朝刊は、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡から、3世紀前半の大型建物跡が発見されたニュースを大きく報じた。
纒向遺跡は、神奈備(かんなび)山として有名な三輪山(標高467メートル)の西麓(せいろく)に広がる大規模な遺跡である。それも3世紀の初頭、突如姿を現し、4世紀の初めまで約100年間、繁栄したことがわかる。これまでの調査で、幅5メートルもの運河や大量の土器や木器、鍛冶(かじ)遺構などが見つかっている。
土器は東海から北陸、九州まで幅広い地域から持ち込まれている。こうした点から、纒向は列島各地の人々が集められ、「新首都」として建設されたとの説が唱えられてきた。宮殿群発見の意義は、首都に不可欠な要素が初めて加えられたことである。
3世紀初頭の日本といえば、『魏志(ぎし)』倭人(わじん)伝に記された邪馬台国の時代であり、次のように描写されている。
《この国は元々男子を王としていたが戦乱(倭国大乱)が起き、互いに攻め合って何年にもなった。そこで1人の女子を共同して王に立てた。名を卑弥呼という。呪術(じゅじゅつ)を使い人々を幻惑した。夫はなく弟が補佐して国を治めた。宮室は高殿と城柵(じょうさく)を設け、兵士が警護していた》
≪激動の海外情勢に対応≫
卑弥呼はよく「邪馬台国の女王」といわれるが、厳密には正しくない。倭人伝は「国々が卑弥呼を女王として共立した」と書き、彼女は約30の国々の一つ邪馬台国に住んでいたと伝える。卑弥呼は邪馬台国を中心とした連合国(倭国連合)の女王なのである。
連合が成立したきっかけの「倭国大乱」の背景には、東アジアの情勢があった。
中国大陸では強大な後漢帝国が「黄巾(こうきん)の乱」(184年)などで衰え、220年には滅亡する。魏、呉、蜀という3国が覇を競う時代(三国時代)が幕を開ける。後漢を後ろ盾に、大陸の先進文物を入手していた奴(な)国や伊都(いと)国など北部九州の国々の地位は低下せざるを得なかった。その後の主導権をめぐる争いこそ、倭国大乱だったのである。
卑弥呼女王は西暦239年、建国されたばかりの魏に使節を派遣する。女王国はこの時点で、東海地方を基盤としたとされる狗奴(くな)国と抗争しており、救援を必要とする理由があった。
使節は翌年、魏の皇帝から下賜(かし)された「親魏(しんぎ)倭王」の金印や100枚の銅鏡などを携えて帰国する。この鏡が三角縁(さんかくぶち)神獣鏡(しんじゅうきょう)だとする説と、画文帯(がもんたい)神獣鏡など古い鏡とする論争については、いまだ決着をみていない。
≪邪馬台国は大和で決着≫
248年ごろ、卑弥呼は亡くなり、倭国には再び戦乱が起こった。13歳の壱与(いよ)という少女を王に立て、混乱は収まった。
卑弥呼の墓として「大きな塚」が築かれた。纒向遺跡の南にある箸墓(はしはか)古墳だとみる研究者も少なくない。箸墓は全長約280メートルもの規模をもち、列島で最初に誕生した大型前方後円墳である。そして築造の時期は、土器の編年や放射性炭素による年代測定などから3世紀半ばから後半と考えられるようになった。卑弥呼の没年と限りなく近づいたのである。
これに対し、寺澤薫・奈良県立橿原考古学研究所総務企画部長のように「卑弥呼の治世は女王国に与(くみ)しない国々も少なくなかった。不安定な時代に、箸墓のような隔絶した大型古墳が築かれたとは考えにくい」とする反論もある。
箸墓が卑弥呼の墓かどうかはおくとして、纒向遺跡がヤマト王権発祥の地であったことは、もはや動かしがたいであろう。邪馬台国(倭国連合)から古墳時代への移行はこの地で、直接的に行われたのである。
こうしたことは、「最初の実在した天皇(大王)」とされる第10代崇神(すじん)天皇の都宮(磯城瑞籬宮(しきみずかきのみや))や11代垂仁(すいにん)天皇、12代景行(けいこう)天皇の宮がいずれも纒向の地に営まれたとする記録とも符合する。
邪馬台国九州説を唱える人はまだいる。しかし、それは学問的な発言ではなく、もはや「お国自慢」などのレベルでしかないと筆者は感じている。
産声をあげたばかりの倭国は、官僚組織などもまだ十分ではなかっただろう。それでも今から1800年もの昔、わが祖先たちがひたすら背伸びし、大陸の国々と競おうとする健気(けなげ)さに、筆者は深い感動を覚えるのである。(わたなべ ひろあき)