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【日本人とこころ】折口信夫と「はつ恋」(上)大和ひとり旅で抱かれ… (1/3ページ)
飛鳥川は川底の泥土が、あられもなくむき出しになっていた。泥土をえぐって、もうしわけなそうに水の流れがあった。雨になれば水かさも増すだろうが、万葉集にもたびたび登場する「飛鳥川」のイメージとは、ほど遠い。
川沿いの、整備された広い道を水落遺跡のあるあたりで左に折れた。道はとたんにせばまり、両脇には農家や酒店、民家などが立ち並んでいる。
平日の午後、初老のハイカーが目につくていどで、さすがに閑散としている。右手には飛鳥寺がある三差路を折れずに、まっすぐに行くと、飛鳥坐(あすかにいます)神社の鳥居に突きあたった。
神南備山(かむなびやま)とは、神が鎮座する山や森のことで、出雲や奈良、京都など各地にある。明日香村にもある。学者も村の人も、この神社から1キロほどの雷丘(いかずちのおか)が神南備山と信じていた。げんに雷丘のまえには柿本人麻呂の有名な歌を刻んだ、こんな歌碑がある。
大君は神にしませば 天雲の雷の上に廬(いほら)せるかも
これに反論したのが折口信夫である。昭和17年に書かれた「古事記の空 古事記の山」には、甘樫丘(あまかしのおか)あたりが「飛鳥ノ神南備」であり、人麻呂もそこでこの名歌を詠んだ、とした。雷丘は「此は又あまりに小さ過ぎたけしきである」としりぞけている。
たしかに雷丘は高さ20メートルほどしかない。山というよりは、字義通りの「丘」である。ここまでの折口の説はなかなか説得力がある。だが折口が言いたかったのは、次の一節である。
「神南備の社は、平安の都になつて間もなく、目と耳の間に見える飛鳥の村の鳥形(とりがた)山に移つた。淳和天皇の御代である。今もある社の名は、飛鳥坐神社である」
ことさら飛鳥坐神社という神社を強調している。理由は簡単である。この神社の神官、飛鳥家が折口の祖父、造酒介(みきのすけ)の実家だったからである。医師だった造酒介は他家から飛鳥家に養子に出され、そのうえで大阪・木津村の折口家に養子に出た。
造酒介は貧しい人にも医療をほどこす献身的な医者で、地域の人にも親しまれた。折口が生まれたときには、すでに死んでいたが、折口は生涯、この祖父を尊敬していた。飛鳥家の出自であることに誇りを持っていた。



