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【現代(いま)に生きる時事新報】(18) (1/2ページ)
広告重視の福澤−社説で“広告のすゝめ”
≪1面まで全面広告≫
「日本一の時事新報に広告する者は日本一の商売上手である」。明治20年代、こんな図々しくも斬新なコピーが登場したことがある。福澤諭吉は、それほど広告を重視していた。
明治15(1882)年、福澤は時事新報を発刊したが、広告を販売と並ぶ経営の柱とした。
1面の全面広告も時事が最初で、明治20年代以降になって各紙に定着した。最大の話題は、明治40年3月1日の創刊25周年記念特集号だった。実に224ページ。日本新聞紙上最大のページ数で、その9割が“記念広告”だった。
「電通」の中興の祖、故吉田秀雄の名を冠した「吉田秀雄記念事業財団」は、東京・東新橋の電通本社ビルに広告資料展示館「アド・ミュージアム東京」を開いている。4年前、「明治期の広告展」を開催し、財団リポートとして『明治期の広告−近代広告の幕開け』を出した。
この中で、上智大学名誉教授、春原昭彦(80)は「新聞広告事始め−ニュー・メディアとしての新聞と広告」と題して、“200ページ以上が広告で埋まった時事新報”を紹介している。広告は583件。「もっと集稿したが、第三種郵便の重量制限でこれ以上載せられない」と断ったほどだった。
春原は「各界で活躍する慶応の卒業生が“福澤先生の新聞が25周年を迎えたご恩返し”と競って広告を出稿した−という逸話が残っている」と明かす。
福澤は、広告業界でも開明的な仕事を数多く残した。広告の重要性を説き、門弟らに広告取次会社の設立を働きかけたほか、広告営業マンやコピーライターを育成し、時に自ら看板まで書いたという。
明治16年10月16日の時事新報に掲載された社説「商人に告るの文」は、さしずめ“広告のすゝめ”論だった。まず「商業の繁昌は利を得るの基なり」と説き、「正直と熟練とかつその価の廉なるを世間に示す工夫」が必要として、こう指摘する。

