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【もう一つの京都】本能寺の変 異説飛び交う事件の真相は (1/3ページ)
天正10(1582)年6月2日、午前4時ごろ。四条坊門西洞院にある法華宗の一大寺院を、約3000人の軍勢が取り囲んだ。
寺はさながら城郭といえるほど強固なはずだったが、軍勢は堀に架かる橋で警備を討ち取ると、あっさりと内部に侵入。「寺の門は開いていて、中はネズミ一匹いないほど閑散としていた」と、後に下級武士の一人が述懐した。寺の武将は、自らが狙われるとは夢にも思っていなかったのだ。
戦いはほどなく幕を引く。武将らはさしたる抵抗もできぬまま、まもなく寺に火が放たれ、自室で最期の時を迎えたのである。
「天下布武」を目前に控えた織田信長が、明智光秀の謀反にあった「本能寺の変」。
重臣の思わぬ反旗で希代の武将が志半ばで倒れた悲劇のドラマは、実はわずかな時間で遂行され、あっけなく幕を閉じている。
信長と交流のあったイエズス会の宣教師、ルイス・フロイスが記した。「どのようにして彼が死んだか分かっていない。ただ我らが知り得たことは、その声だけでなく、その名で万人が戦慄した人が、毛髪といわず骨といわず灰燼(かいじん)に帰したことである」
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光秀が主君を討つに至った理由は何か。数多の俗説が登場しては消えた。
江戸時代には信長によるいじめへの「遺恨説」が流布した。歴史資料には江戸時代に編集されたものも多く、戦前の歴史学会では根拠のない資料を参考にした研究が繰り広げられた。
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