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【試行私考 日本人解剖】第3章ルーツ 民族の形成(1) (2/3ページ)

2008.5.12 07:58
このニュースのトピックス歴史・考古学
小田原市の中里遺跡で見つかった弥生土器の破片。瀬戸内東部でつくられたとみられる(玉川文化財研究所提供)小田原市の中里遺跡で見つかった弥生土器の破片。瀬戸内東部でつくられたとみられる(玉川文化財研究所提供)

 しかも同遺跡では、縄文の祭祀(さいし)に使われたといわれる石棒(せきぼう)と土偶が、双方の居住区から見つかっている。大阪府文化財センター京阪調査事務所の秋山浩三・調査第二係長は「縄文系、弥生系どちらの集落でも石棒や土偶を所有し、共通の祭祀を行っていたことから、両者の関係は良好だったようだ」と話す。

 この「縄文の壁」の時代をすぎると、近畿地方に銅鐸(どうたく)文化が到来する。弥生中期(紀元前300年ごろ)から出土する銅鐸の分布圏は近畿をはさんで東四国から東海地方に広がり、縄文晩期後半〜弥生前期初頭(紀元前800年ごろ)の石棒の分布圏と一致することが近年分かってきた。難波洋三・奈良文化財研究所考古第一研究室長は「最古段階の様式の銅鐸が分布圏の周辺からも出ている。銅鐸文化は中心から周辺へと徐々に浸透したのではなく、銅鐸出現前から存在した何らかの地域的まとまりを引き継ぐ形で広まったのだろう」と語る。

 弥生早期〜前期に九州などでみられる磨製石剣が朝鮮半島の影響が強いのに対し、石棒は在来縄文系集団に特有だ。小林准教授は「銅鐸も祭祀に使われ、『(銅剣文化圏の)九州とは違う』という近畿中心の文化圏のシンボルだった。石棒と分布圏が一致し、銅鐸には縄文系の模様も付けられていることから、縄文祭祀が受け継がれた可能性は高い」と解釈する。近畿では、縄文系集団が主体的に「縄文の壁」を乗り越えて弥生化したのかもしれない。

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小田原市の中里遺跡で見つかった弥生土器の破片。瀬戸内東部でつくられたとみられる(玉川文化財研究所提供)
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