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【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 弥生人の出現(2) (1/3ページ)

2008.4.21 08:32
このニュースのトピックス歴史・考古学
在来縄文人の子孫である西北九州型弥生人(左)と渡来系弥生人の顔の復元図。どちらの弥生人が水稲稲作を始めたのだろうか(土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム提供)在来縄文人の子孫である西北九州型弥生人(左)と渡来系弥生人の顔の復元図。どちらの弥生人が水稲稲作を始めたのだろうか(土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム提供)

 ■水稲の受容解明の鍵は渡来時期

 ≪空白の500年≫

 縄文人とは大きく異なった「面長(高顔)・高身長」という特徴を持つ北部九州・山口型弥生人。同じ特徴を持つ同時期の古人骨が中国・山東省や江南地方から見つかり、大陸から水稲農耕とともに渡来してきた集団と考えられることは前回紹介した。では、渡来系弥生人とも呼ばれるこの集団はいつ、列島にやってきたのだろうか。

 縄文人が狩猟採集で生活していたのに対し、渡来系弥生人は水稲農耕を営む人々だった。水稲農耕を最初に列島に持ち込んだのも彼らだったとすれば、渡来開始時期も明らかだが、話はそう単純ではない。

 最も古い渡来系弥生人の人骨が見つかる北部九州の遺跡は弥生時代前期末(紀元前4世紀ごろ)以降のものに限られ、水稲農耕が始まった時期(紀元前10世紀後半)からは500年近くも遅い。板付遺跡(福岡市博多区)や菜畑遺跡(佐賀県唐津市)など最古の水田跡をもつ遺跡からは人骨は出土しておらず、そこで稲作を営んだ人々の実像は謎だ。

 水稲農耕開始とほぼ同時期の人骨は、九州では、新町遺跡(福岡県志摩町)と大友遺跡(佐賀県唐津市呼子町)などから出土している。弥生時代の西北九州には、在来の縄文集団の子孫と考えられる「短(低)顔・低身長」の人々がいた。両遺跡のこの時期の人骨も、やはり縄文的特徴を持っている。しかし、彼らが葬られていたのが、「支石墓」という、当時の朝鮮半島で多く見られる形式の墓だったため、謎はさらに深まる。

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在来縄文人の子孫である西北九州型弥生人(左)と渡来系弥生人の顔の復元図。どちらの弥生人が水稲稲作を始めたのだろうか(土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム提供)
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