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【ぶっちゃけインタビュー】「本能寺の変」にメス 今谷明・国際日本文化研究センター教授 (1/2ページ)

2008.3.8 22:00
日文研の今谷明さん=2008年1月22日、大阪市港区日文研の今谷明さん=2008年1月22日、大阪市港区

 「本能寺の変」(1582年)は、日本史の中でも最大の謎といえる事件のひとつです。本能寺の旧境内地は京都の中心街(中京区蛸薬師通西洞院付近)の地下に眠っているのですが、今回初めて発掘調査のメスが入りました。織田信長の時代の石垣や、「能」が浮き彫りされた瓦を目にしたときは、さすがに興奮しました。

 これを機に、改めて当時の文献を調べ直し、発掘成果がもつ意味を考えてみました。産経新聞の3日夕刊付1面に載った「信長の本能寺御殿は、意外と簡素だった」というのが結論。本能寺の本堂に立ち、槍(やり)や刀で奮戦し、やがて火中に消えてゆくというドラマの情景は間違いだとわかりました。

 御殿の規模は、およそ40メートル四方。園城寺(三井寺、大津市)に現存する勧学院客殿か光浄院客殿(いずれも国宝)と似たような規模の建物だと想定できました。彼の跡を継いだ豊臣秀吉の聚楽第(じゆらくだい)や徳川家康の二条城などの城郭に比べると、意外なほどの貧弱さです。

 こんな施設に、わずか20〜30人の小姓を連れ泊まっていたのですから、明智光秀の1万を超える大軍に攻められては、防ぎようもなかった。彼ほどの権力者がなぜ、こんな油断をしてしまったか。考えられないことですね。

   *    *

 逆に、光秀の動機は、はっきりしていました。「今なら、天下が取れる」という判断でしょう。柴田勝家は遠い北陸で上杉景勝と戦っていたし、羽柴秀吉は備中(岡山県)で毛利氏と対陣、滝川一益は上野(群馬)…と、織田軍団の主戦力は各地に散っており、畿内で大軍を動かせるのは自分だけという、絶好の状況でした。

 自分に対する信長の仕打ちをうらんだとか、背後に黒幕がいたとか、珍説・奇説まで含めいろいろな説があります。でもやっぱり、戦国武将らしく、転がり込んできたチャンスに食らいついたんだと思いますね。

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日文研の今谷明さん=2008年1月22日、大阪市港区
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