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【トウ小平秘録】(112)第5部 最高実力者 日中友好ムード
■反ソ親米の路線上にあった
1978年10月22日から29日まで、トウ小平(しょうへい)氏は日本を初めて公式訪問、機知に富んだ率直な発言で、日本人を魅了し、友好ブームを巻き起こした。それは「日中関係の新たな出発点」(トウ氏)になっただけではない。トウ氏の近代化戦略の出発点でもあった。
トウ小平氏の訪日は、同年8月に締結された日中平和友好条約の批准書交換式に出席するためだった。同条約は72年9月、日中国交正常化の際の共同声明で締結をうたい、74年11月から交渉が始まったが、いわゆる覇権条項の明記をめぐって難航を重ねた。
覇権条項にはソ連(当時)がソ連敵視として強く反対、中ソ等距離外交をとる三木武夫政権は決断できず、福田赳夫政権の下でやっと妥結した。75年以降、トウ氏は日本人訪中者と会見する度、覇権条項の意義を強調している。
その中で75年1月、元自民党幹事長、保利茂衆院議員にはこう話した。
「われわれは永遠に覇を唱えない。率直に言えば、わが国のような遅れた国に覇を唱える資格などあるだろうか。問題は30年、50年後、われわれが発展した国になってからだ。そのとき、もし中国が覇を唱えたら、世界の人民は、中国人民と一緒に中国を打倒する責任がある」
これと似た表現は、74年春の国連特別総会におけるトウ氏の演説にある。トウ氏は、米ソを第一世界、日本など西側先進国を第二世界、途上国を第三世界とする「三つの世界論」を打ち出し、米ソの覇権争奪を世界の安寧を脅かす根源と批判、世界人民が連携し覇権主義と闘うよう呼びかけた。
76年の文化大革命(文革)終結後しばらくして「三つの世界論」は立ち消えになり、反覇権の意味も変化したと中国の研究者は話す。
「反覇権は実質的に反ソ連になった。米国は提携すべき相手になり、日中平和友好条約も反ソ親米の路線上に位置付けられた」
トウ氏は、訪日直前の78年10月8日、訪中した文芸評論家の江藤淳氏に対し、こう述べている。
「われわれは中日条約の締結で、中米正常化の早期実現が促されるよう望んでいる。72年のニクソン訪中は、中日の国交樹立を促したが、中日条約の締結によって米国が正常化に積極的になったことに注目している」
先の研究者によると、中国は当時、日米の資本は中国市場をめぐって競争関係を強めると分析、日中条約の締結で日本が対中関係でさらに先行することを、米国は警戒しているとみていたという。
結果的には、日中条約の締結とトウ小平氏の訪日は、米中正常化交渉を促進させた。米側は最大の障害になっていた台湾問題で譲歩し、11月中旬には妥結の方向になる。
トウ小平氏は、日本ばかりか米国をも取り込むことに成功、改革・開放への自信を深めたのだった。
■毛時代のタブーを破った
日中平和友好条約の締結(1978年8月)交渉で、中国がなぜ覇権条項にこだわったのか、孫平化(そんへいか)中日友好協会秘書長(当時、後に会長)に聞いたことがある。
答えは「毛沢東主席が決めた外交原則だから」。「反覇権」は、米国を含め各国との外交文書に明記されたが、日本だけが条約交渉時に抵抗した結果、中国は譲れなくなった、と。
「過去の戦争体験から、中国人の間には反日感情が根深い。日本との関係を進めるためには、二度と覇を唱えない確認が国内的に必要なのだ」
78年10月のトウ小平氏の訪日は、中国のテレビでも報道された。元新華社通信記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は著書「トウ小平時代」(中央編訳出版社)で中国国民に与えた衝撃を記している。
「トウ小平は日本の労働者家庭を訪れ、その豊かな生活を称賛し、資本主義国の労働者は絶対的貧困にあるとの論を動揺させた。トヨタ自動車や松下電器の現代技術にも感嘆し、資本主義は死に瀕(ひん)しているとの見方はでたらめと印象づけた」
日産自動車の工場では、労働者1人の年間生産台数は94台と聞かされる。中国最先端の長春自動車のそれはたった1台だった。トウ小平氏が「何が現代化かよく分かった」と話すのを見た人はこう漏らした。「外国に学ばねば、われわれはまた亡国の徒になる」
トウ小平氏は自らの目で日本の発展を確認しただけでなく、国民の意識変革をも促した。このとき北京では、毛沢東路線堅持を主張する「すべて派」がなお頑張っていた。
トウ小平氏は訪日から帰国した1週間後、タイ、マレーシア、シンガポール歴訪に出発する。そのうち特にシンガポールの発展ぶりに衝撃を受ける。
帰国したときは中央工作会議の最中で、「すべて派」が窮地に追い込まれつつあった。
11月26日、訪中した民社党の佐々木良作委員長(当時)が政府資金貸し付けを打診すると、「受け入れる」と即答した。日本の対中政府開発援助(ODA)について、トウ氏は訪日時には「検討課題」と答えていた。
権力闘争での勝利が確定的になる中で、トウ氏は毛沢東時代のタブーを破り、西側資金の受け入れを決めた。
第一次対中ODA約3300億円は79年12月に正式決定、中国の近代化建設に重要な役割を果たす。(中国総局長 伊藤正)
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【用語解説】覇権条項
1972年9月の日中共同声明第7項にあり、全文は「両国のいずれもアジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する」。78年8月締結の日中平和友好条約では、「アジア・太平洋地域においてもまたは他のいずれの地域においても」と修正。「他のいずれの地域」を加え、日中間の盟約の色合いを強めた点に特長がある。

