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【大相撲豪傑列伝】(10)協会幹部を日本刀で襲撃 玉錦三右衛門
土佐犬のような男だった。玉錦は闘魂で土俵の王者となった。高知出身。13歳で入門したが、体重63・75キロという当時の新弟子検査規定に達せず、番付に乗るまで3年かかった。恵まれない素質を熱心なけいこでカバー。ナマ傷が絶えず、つけられたあだ名が「ボロ錦」。
けいことともに熱心だったのが、ケンカ。刃物を手にしたヤクザとも平気で渡り合い、部屋の近所でもめ事があると「犯人は玉錦だろう」と真っ先に疑われたほど。もうひとつのあだ名は「ケンカ玉」。番付が不満で相撲協会の実力者、出羽海親方(元小結両国)を日本刀で襲ったこともあった。
乱暴狼藉がアダとなり、大関で昭和5年10月場所から3場所連続で優勝しても、横綱になれなかった。25年に設置された横綱審議委員会の横綱昇進内規は「2場所連続優勝か、それに準ずる成績」。今後は大関で3連覇して横綱になれない力士など永久に出るまい。
8年1月にようやく横綱に昇進し、玉錦時代が到来した。が、王座は短かった。鋭い出足を武器に10年1月から3連覇を続け、同5年から27連勝を記録していたが、その連勝を止めたのが、自ら胸を出して強くした双葉山だった。双葉山はそのまま69まで連勝を続け、覇者は劇的に交代した。
その後は打倒双葉山に闘志を燃やしたが、志半ばでたおれた。巡業中に虫垂炎を発症したが、「おれが盲腸になるはずがない」と病院行きを拒否して弟子に腹をもませた。盲腸が破れて膿(うみ)が腹腔にあふれ、緊急手術したが手遅れだった。13年12月4日、死去。出世の原動力となった強情が命取りになった。現役横綱の死は、谷風以来143年ぶりの悲劇。薄れゆく意識の中で発した最期の言葉は「おい相撲だ。まわしを持ってこい」だったという。
■たまにしき・さんえもん 明治36(1903)年12月15日、高知県出身。大正8(1919)年1月初土俵、昭和8(1933)年1月横綱昇進、13年5月最終場所。173センチ、139キロ。