ニュース: 文化 RSS feed
【青雲の大和】(355)青雲の果て (1/2ページ)
威厳に欠ける若い帝の気弱な姿をまえにしても、なお恵日(えにち)はあきらめていなかった。なんとしても玄理(くろまろ)のねがいを実現させてやりたい。玄理がめざす友誼(ゆうぎ)と安寧を帝みずからが、この場で宣(せん)するかたちにもっていきたいのである。
しかし、あせる恵日の思いをよそに、帝は大和の使節団にたいし、天下の政(まつ)りごととはまったく関係のない趣味、教養の世界に遊ぶかのような下問をつづけている。
もちろんその声は、細々と小さすぎて恵日らのいるところまではとどかない。ために、帝の声を即座に拡大するだけの役割の男が、自分で問いを発しているようにみえる。
「倭国には蓬莱(ほうらい)という神山(しんざん)があるやに聞くが、このなかに登った者はいるか」
隋、唐での留学十余年の恵日には聴き分けられるのだが、帝の話し方にはまるでその辺の若者が使うような俗語がまじっている。
「いないのか、そうか、それは惜しい。不老不死の妙薬があるというぞ」
その話に大使以下、皆があぜんとしていると、さらに、
「倭国には肇国(ちょうこく)の神々の名が伝わっているとか、聞いたおぼえがある」
といって、神々の名をひどく興味深げに問うてきた。
おそらく伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美命(いざなみのみこと)か、天照大神(あまてらすおおみかみ)のことをいっているのであろうが、大使に代わって恵日が適当に答えると、
「それは男神か、女神か」
と、小声ながら身を乗りだすようにして訊(き)いてくるしまつである。
むろん、そこに悪意はない。東海の神の国を大唐に従わせようとする権勢欲もないのはわかっている。しかし、このおかしな学術的嗜好(しこう)は、現下の皇帝にはゆるされざる遊びとしか思えない。
いま、重篤の病床にある玄理が、なぜに命をかけてまでして唐を訪れ、大和と唐の友誼と安寧を築こうとしているのか、若い帝がまったくなにも感じていないことに、恵日は憤りをさえ覚えるのである。
「畏(おそ)れながら、おうかがいしたいことがございます」